実家、電車、バスで断続的に書いたメモ

《断末魔ウス》でディスプレイだけではなく,その周辺も含めて見てみる.そこには恐らく壊されることがないマウスがあるであろう.カーソルは動くが,マウスは動かない.カーソルが動くように,自分の机の上のマウスが動いたらどう思うだろうか.
マウスを動かさなくても,カーソルが動く.しかし,カーソルが動いても,マウスは動かない.ここには非対称性がある.

《祈》では,マウスが動かないで,カーソルが動いている.一見《断末魔ウス》と同じである.しかし,この作品では重ね合わされた2つの動かないマウスがカーソルを動かしているのだ.物理的には光が干渉することで,マウスが動きがを読み取ってしまっている.ある意味,マウスのエラーである.しかし,外から見れば動かないマウスがカーソルを動かしているのであり,1つの奇蹟に見える.エキソニモが手を加えているのは,マウスの重ね方とカーソルが画面上をループするようにプログラムを変えることだけで,《断末魔ウス》と違ってカーソルとマウスとのあいだの関係はハックされていない.ここでは,電気が供給される限り,画面上のカーソルは無限にループし続ける.ヒトから自律したモノ→プログラム→イメージの出来事が成立している.カーソルが動くことで,出来事のループを示している.

《gotexists.com》では,逆にカーソルが消えることでループが成立する.

《祈》では,コンピュータの「意思」みたいなものがカーソルによって表象されているように鑑賞者は解釈してしまう.コンピュータに「意思」などないとしても,カクカクと動きながら延々とループするカーソルに対して何かしら意味を付与してしまう.

カーソルがなくても作品のタイトルと重ね合わされた2つのマウス,そして「祈り」のイメージ検索の結果を表示しているディスプレイから,鑑賞者はそこに「祈り」を見い出すだろう.だが,そこにカーソルがあることで,その意味が強化される.静止した世界の動きが加わる.時間のないフラットな論理の世界に動きが加わる.循環する時間が生じる.カーソルという「↑」がヒトの感情をコントロールする.それは言い過ぎかもしれないが,ある感情を想起するトリガーになっている.

カーソルをハックするということを行わずにヒトなしのデータの流れが《祈》では出来上がっている.データは延々と生成し,カーソルは画面上をループし続ける.ヒトはそれをただ見続ける.

《祈》では「それがかつてあった」という意味での映像からの解放が起こっている.それはデータからその場で生成されている.どこかにあるGoogleのサーバーから送られてきたデータと,2つの重ね合わされたマウスから生じるデータから,その場で生成されているディスプレイ上の映像.

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