カーソルという記号的存在



指とカーソルが連動している.マウスとのカーソルとのつながりとも異なる感覚.なんかとても違和感がある.どこかにタッチしているようで,まったくどこにもタッチしていない.指がどこにも触れていない.これは多分,疲れると思う.何か触れたときは,触れた物質からの反作用が確実にあるのだけれど,このインターフェイスにはそれがないと思われるから.そして,もしないとすれば,自分の中で物質からの反作用を作らなければならない.そうすると,触れるというアクティブな面と,物質から反作用というパッシブな面の双方を自分の身体で行うことになる.それでは,ヒトはインターフェイスから自らの輪郭を描けないのではないだろうか?
輪郭は,日常に散りばめられた無数の要因の中から,その状況に適応した顕著な因子が瞬時に抽出され結実する.輪郭は外側から導き出される,ということである.手で壁に触れて壁というものを認識することは理解できても,同時に壁が己の手の形を認識させていることにはふつう気づかない.輪郭を見いだすのは易しくない.それははっきりとしたものではない.砂の中のヒラメが動くことで姿を現すように,輪郭は動きの中で「今」「ここ」という瞬間に現れ,結像する.(p.18)
デザインの輪郭,深澤直人
ここで「輪郭」という言葉を出したけれども,このインターフェイスの「輪郭」は,タッチによって与えられるのではなくて,カーソルによって与えられると思う.iPhone などのタッチパネルを用いたデバイスにはカーソルがなくなっている.それは.直接ディスプレイ表面に触れるから,そこで私たちの行為の輪郭が,触れる指,触れられる面,そしてそれに伴うイメージの変化で構成される.ここには「触れるー触れられる」という関係と,それに伴うイメージの変化がある.「指と面」との接触が行為の輪郭を描きだし,それにイメージの変化が付随する(もしくは随伴する).

だが,このインターフェイスには「触れるー触れられる」の関係がない.それゆえにこの関係を擬似的に作り出さなければならない.この擬似的接触関係を作り出すために必要なのがカーソルである.もちろん,カーソルはこのインターフェイスに限ったものではない.マウスとの組合せ,古くはライトペンとも組み合わされていた(→の形ではないが).それらすべてが擬似的接触関係を作り出すためのものだったといえる.直接的な接触関係がインターフェイスに生じないときに,カーソルは行為の輪郭を生じさせるために必要なものなのだ.

マウスやトラックパッドはディスプレイに直接触れることなくとも,何かしらの物質に触れている.それゆえに,私たちの身体は,間接的にディスプレイ上のイメージに触れているような感覚を,カーソルを見ることで得ているといえる.しかし,この新しいインターフェイスは,指がどこにも触れることがない.このインターフェイスは疲れるのではないかと書いたけれども,その疲れは,物質からの反作用がなく行為の輪郭が掴みにくいということに加えて,ディスプレイ上のカーソルというイメージという物質ではない存在に直接触れているという新しい行為の輪郭が生じていることからくるのではないだろうか.そんなのはヴァーチャル・リアリティで散々やられていたいたではないかと思われるかもしれないけれど,カーソルというまさに記号的存在に触れるということは,実はなかったのではないだろうか.私たちは,→の形をしたカーソルをこの20年間見続けてきたけれども,その重さや手触りに関して何か知っているだろうか.まったく知らないままなのではないだろうか.それゆえに,このインターフェイスのデモを見ると,全く知らない存在に触れているような違和感を覚えるのである.

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