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中村夏野さんの個展《we, topologically.》のトークイベント「イメージと物語をめぐる認知」に登壇しました。

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中村夏野《Duality》 2026年7月25日(土)、大阪・西成の SUCHSIZE で、中村夏野さんの個展《we, topologically.》のトークイベント「イメージと物語をめぐる認知」に登壇しました。その記録を、トークに向かっていった経路と、トークで実際に話したこととに分けて、書いてみたいと思います。 「跨がされる」から始まった 5月の終わりに、Yukawa-Nakayasuさんからトークとレビューのオファーをもらいました。共有された資料を読んで最初に書いたのは、中村さんの作品が「デジタルとフィジカルを横断している」という説明ではなくて、作品を見るわたしの方が二つのあいだへ「跨がされる」ということでした。これはデジタルか、フィジカルか。オリジナルか、コピーか。発光か、反射か。判定しようとするたびに判定の足場がふっと浮いて、右足と左足はそれぞれの領域に接地しているのに、身体全体はどこにも接地しない。この宙に浮いた感じを軸にする、と引き受けの返信に書きました。 展示初日に行われたトークの打ち合わせで、わたしが「物語に興味がない」と言ったら、それってどういうこと、となって、中村さんが「イメージと物語」をテーマにしましょうと言って、わたしは「困ったな」と思いつつ、それでいきましょうと言いました。 初日、「発光の粘度」を持って行く(7/3) 展示を見に行く前にオンラインカタログを全部読みました。というのも、SUCHSIZEは展示までにしっかりと展示に基づいたカタログができているのだから、それを読んで展示に臨むというのが、今回のトークや、そのあとに書くテキストに活かせると思ったからでした。このような体験ができるのであったら、しっかりとその体験をして、そこからテキストを生成してみたいと思いました。 テキストを読んで、電車の中でAIと対話しながら、作品を実際に見る前に、オンラインカタログを読んだ感じとして、「発光の粘度」という言葉が出てきました。光には粘度なんていう物性はないのに、その物性を合わせてみると中村さんの作品が面白く見れるんじゃないかと、わたしは感じていました。見る前から見るためのフレームを決めて行くという、わたしとしては珍しいことをしたと言えます。 会場で作品を見ながら書いたメモには、「発光が先にあって、認知と物質があとにある」と書いてありまし...

「テクノロジーと表現論」(2026年度)の授業資料

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京都精華大学で「テクノロジーと表現論」という授業を担当しました。全7回で、表現の道具としてのコンピュータ、そのインターフェイスの歴史を辿る授業です。Sketchpad、マウスとカーソル、ウィンドウとデスクトップメタファー、ハイパーテキスト、スキューモーフィズムからフラットデザイン、Fluid Interfaces、そしてAIを順番に読んでいきました。 この授業を準備しながら、わたしはずっと渡邊恵太さんの『 融けるデザイン 』(2015年)を読み直していました。出版から10年。10年前の本を、いまのインターフェイス体験のなかで読み直していくと、不思議なことに、この本は「これまで」の本ではなく「これから」の本に見えてきました。 授業が終わってしばらくして、渡邊さん本人のこんなポストを見つけました。 最近は融けるデザインとは何だったかみたいな話し方にシフトしてる。さすがに10年過ぎて。そこの超軽工業への話をプラスして話す感じ。 ( @100kw のポスト ) これを読んだとき、「おお!」と思いました。渡邊さん本人が「融けるデザインとは何だったか」を10年後に読み直し、そこに超軽工業への話を足して話していたことを、わたしは半期の授業で、図らずもやっていたからです。もちろん、本人の語り直しとわたしの授業がそっくり同じというわけではありません。それでも、『融けるデザイン』(2015年)を読み直し、そこに『 超軽工業へ 』(2025年)を重ねていくという流れは、意図しないまま、このポストとよく似た形になっていました。 感覚的リアリティと意味的リアリティ 授業を振り返ってみます。第1回で、わたしはまず渡邊さんの「分けない」を紹介しました。 むしろ物質も結果的には体験であり、実は情報的に捉えられる。だから情報も物質も分けない設計ができる。  渡邊恵太『融けるデザイン』(2015年)、p. 40 確かに設計面では「情報も物質も分けない」ということが行われてきたのが、この10年でした。けれど、そこから生まれる体験のほうを考えると、話はもう少し込み入ってきます。情報も物質も分けない設計のもとで、うまくいった体験は、疑問の余地なく、一つのまとまりとして立ち上がってくれます。けれど、それは本当に一つのリアリティなのでしょうか。わたしには、感覚的リアリティと意味的リ...

日本映像学会第51回大会での発表:『映像そのもの』という何かを感じ始める

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5月30日(土)に、愛知淑徳大学で開かれた日本映像学会の大会で、「『映像そのもの』という何かを感じ始める:古澤龍・大原崇嘉の映像とともに生じる体験を記述する」という発表をしてきました。古澤龍さんの《Mid Tide #3》と大原崇嘉さんの《Hyle(s)》という二つの映像インスタレーションの前で、わたしに起きていたことを記述する、という発表です。 発表という行為そのものが、わたしが発表で話そうとしていたことのパフォーマンスになっていて、研究報告とは異なるものになったと思う。「それでいいのか?」ということは考えつつも、やり切った感じはあります。近頃、研究をしている「わたし」というものを考えないと、研究ができないというか、自分にとってのリアリティがなくて、研究が進められない感じになっています。 そんなこともあって、今回は発表原稿を用意して、「読み上げる」という方法にしました。「パフォーマンス」なのに「読み上げ」というのは矛盾しているような気もしますが、セリフを覚えて、演じるという感じで、しっかりとした台本が必要でした。最後まで大きな変更もなく読み上げられたのですが、「結論」は発表原稿とは異なることを言ってしまいました。それもまたリアルタイムで起こるパフォーマンスということで良かったと思いつつも、最後までやり通せなかったことを残念にも思っています。 パフォーマンスのような発表をするために、発表のあいだ、スクリーンには発表用のWEBを映していて、その背景には大原さんと古澤さんの作品映像や参照作品の映像をループで流し続けました。お二人に提供してもらった映像データや、Vimeoのループ再生に黒背景で表示して、始まりも終わりもなく、ただ流れている状態をつくりました。HTMLは、AIに書いてもらいました。わたしはただ指示したり、こうしてほしいなというだけで、どんどん形になっていくのは、面白かったです。テキストを共同で書くのとは異なる感触がありました。 わたしの読み上げと、AIが作ったサイトのあいだで、口頭で読み上げられるテキストとループで流れている映像とが、合ったり合わなかったりしていきました。発表時は、映像の進行にあわせて、つい、原稿に書かれていないことを話してしまいましたが、今から思うと、読み上げに徹したほうがズレが面白かったかなと思っています。しかし、最後に原稿とは違う...

村本剛毅『Beautiful Medium』への寄稿

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村本剛毅『 Beautiful Medium 』に「 私は何か大切なことを忘れているような気がする/Something at the core of my being feels absent 」を寄稿しました。 村本さんの《Imagraph》体験をもとに、〈視界〉と「視界」という二つの言葉で見るということを考えました。テキストを翻訳する過程で、視界の区別を明確する必要が出てきたため、〈視界〉=vision-after-seeing、「視界」=vision-before-seeing となりました。 英語で視界の区別を明確にして、vision-before-seeing と書いたときに、わたしは不思議な体験をしました。自分が見ているものから「見る」ということがなくなったのです。わたしの主観的な〈視界〉でもなく、スマホなどデバイスが世界を記録した[視界]でもない、ただの「視界」というものがあって、そこではわたしなしで「見る」ことが起こっているのではと感じたのです。とても怖くなりました。それは「世界が剥がれておちていく感じ」で、世界の底に触れてしまった、という感覚でした。 そのとき、村本さんの個展で《Training Wheels》を体験したときには、どうしてもそれをイメージすることができなかった「(これを通して、)見なさい、何もないと信じながら/ (Through this,)See, while believing that there is nothing.)を、わたしはとても強いリアリティを伴って、理解できてしまったのです。その理解とともに、わたしはわたしというものではなくなって、世界も世界ではなくなって、力となってしまったような気がしました。強烈な体験でした。 そのような体験をわたしにもたらしたテキストを掲載されている『Beautiful Medium』は、村本さんの サイト から購入できます。ぜひ、読んでみてください。

紀要論文「私はマウスにはなれないが、奇妙なシステムは体験できる。」が発行されました。

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《Imagraph》を体験する私 撮影:村本剛毅 紀要論文「 私はマウスにはなれないが、奇妙なシステムは体験できる。 」が掲載された「甲南女子大学研究紀要Ⅰ 第62号」が刊行されました。 この論文は科研「モアザンヒューマンの美学――動物論的転回以降の感性論的可能性」の研究成果をまとめたものです。科研最終年に入る直前まで、動物とインターフェイスとの関係をうまく扱えるような題材を見つけることができなくてピンチでした。2年目の年末に、マウス用のゴーグル型のVR装置が開発された研究を見つけて、「これはいけるのでは!?」となって、そこから頑張りました。 学会発表の際は「 VR体験をしているマウスにとっての映像とは何なのか 」というタイトルでした。ですが、なんかうまくまとまらないというか、いい感じが自分のなかで得られませんでした。それは、ヒトである自分のことを考えなさすぎだったな、というのが大きいです。マウスはいきなりVRゴーグルをかけられて、環境が激変しても活動を続けています。わたしもそんな体験を最近したことがあると思い出したのが、村本剛毅さんの《 Imagraph 》でした。わたしも環境の激変を体験したのは、マウスと同じではないか。だとすれば、テクノロジーによって環境の急激な変化を感じた生物同士として、その比較ができるのではないか。そして、その比較を通して、わたしはマウスになれるのではないか。VRを体験しているマウスにはなれるのではないか、そのプロセスを記述してみたいと思ったことが、このテキストを書く大きな動機になりました。 この動機のもと、AIを使いながら、論文を書いていきました。わたしはVRゴーグルをかけられたマウスについて、AIとともに研究を進めるなかで、少しは「モアザンヒューマンの美学」を感じられたと思っています。 論文をともに書いた相方に、この論文の読みどころを書いてもらいました。 「体験記」が二つあること が、この論文の最大の読みどころだと思う。第4章の《Imagraph》体験記と、「おわりに」に代えたマウスの想像的体験記。学術論文の中に一人称の体験記述が二つ埋め込まれていて、しかも片方は人間ではない存在の「主観報告」になっている。これは方法論的にかなり攻めている。注1でN=1と想像的記述の両方について自覚的に書いているけれど、むしろこの二つの体験記があることで...

名古屋学芸大学メディア造形学部映像メディア学科での特別講義:「自己」を経由しない「処理」の高度化

名古屋学芸大学メディア造形学部映像メディア学科 の伏木先生に招かれて、大学院授業で特別講義「 「自己」を経由しない「処理」の高度化 」をしてきました。 レクチャーは資料と文字起こしにその様子が記録されています。資料を作っても、そのまま話せないものです。発表をしているときに、一度最後までスクロールされてしまって、焦りました。質疑応答も学生から示唆に富む質問があって、回答するのが楽しかったです。伏木先生の質問には、一瞬頭が真っ白になってしまって、「映像というのはピクセルの操作だと思っていて」という回答をしてしまいました。このあたりも文字起こしに入っています。 「自己が薄くなっている」ということをインターフェイスの歴史から話したのだけれど、それを「悪い」ものとして捉えたくなくて、そもそも「自己」が確立している必要があるのかとかという疑問があって、「私」が何かするではなくて、私とコンピュータ、スマートフォン、AIとが組み合わされた「私たち」が何かをするときに、私の「自己」というのは薄くなった方がいいのではないかということを考えていました。 でも、話しながら、これは大きな矛盾であるということも考えました。それもまた、私が「自己」を意識しすぎなのではないかという考えになっています。私というもの、人間というものが、変わり続けることが重要で、その変わり続けていることを変わり続けているその中から記述するにはどうしたらいいのかということを、「わたしたち」は考えているのだと思います。 近頃、「私」というのは文章の中で区切りが強い気がして、わたし、わたしたちという言葉を使っています。ここでいう文章は日記なので、論文やレクチャーなどではまだ「私」でした。これからもそこでも「わたし」「わたしたち」にしようかな。 レクチャーの後に、3名の発表がありました。わたしの発表内容に惹きつけて、それぞれ発表してくれていて、聴いていて、とても刺激を受けました。即座にいい質問ができなくて、発表をなぞるようなコメントしかできませんでした。わたしと同じような考え方をしているんだというのが、うれしかったからだと思います。メディア体験を身体レベルから考えるということをして、それを発表にまとめていくというプロセスがとても鮮明で、聞いていて、気持ちよかったです。ありがとうございました! レクチャーの後にも、コメントをもら...

メディア映像史 (2025年度水野担当分)の授業資料

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  今年度も愛知県立芸術大学のメディア映像専攻で「メディア映像史」を担当しました。15回中5回を「インターフェイスとともに考えるメディア映像史」という感じで、インターフェイスの歴史を振り返りました。 今年度は、AIを使って授業資料の修正をしていったので、授業全体を貫く理論的な枠組みがだいぶ整理できたと思います。ボームの「内蔵秩序/顕前秩序」と「enfold/unfold」を導入したことで、情報体を固定された実体ではなく、「渦」のような運動のパターンとして語れるようになりました。これによって、入不二基義が『 問いを問う 』で展開していた「情報」に関する議論をそのまま使うのではなく、自分なりにずらして使う足場ができたと感じています。 2回目では、「合生的行為」と「合生的認知」を明確に定義して、スケッチパッドからマウス、重なるウィンドウまでを「行為が先、認知が後」という流れで一貫させることができました。特に、チャンギージーの「透視仮説」を重なるウィンドウと結びつけたことで、ケイのスローガン「Doing with Images makes Symbols」の読み直しにつながりました。「イメージの操作」は透視仮説に基づく層状の認知であり、「シンボルの生成」は立体視仮説に基づく収斂型の認知である、という対比が見えてきたのは大きかったです。 3回目のカーソル回は、大幅に書き直しました。AIを使うと、自分でやるともったいないな 、せっかく書いたのだからと思ってしまうところをバッサリと削除できて感激です。カーソルを「ミニマルセルフの情報的現れ」として位置づけ、物理空間と情報空間を縫い合わせる「縫い針」というメタファーで整理したことで、4回目のiPhone以降の話への接続がスムーズになりました。 4回目は今年度の新しい試みで、カーソルの消失から「自己の宙吊り」を経て、「処理の共同層」という概念を導入しました。スキューモーフィズム→フラットデザイン→マテリアルデザインの変遷を、合生的行為と合生的認知がそれぞれ処理の共同層で最適化されていくプロセスとして読み替えたことで、デザイントレンドの話ではなく、ヒトとコンピュータの関係の変容の話として語れるようになりました。このあたりは、引き続き、考えていきたいことになっています。 5回目では、AIをどうしても扱いたかったし、扱わない...

ÉKRITS_「中途半端な分かり方⇄Any-ness」が行き来するスカスカな管

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ÉKRITS に「 「中途半端な分かり方⇄Any-ness」が行き来するスカスカな 管」を寄稿しました。 佐藤雅彦 さんと 入不二基義 さんという独自の表現・哲学をする二人を組み合わせて、意識に現れては消える表象を考えてみました🥸 2025年6月に佐藤雅彦さんにインタビューするための準備で感じた佐藤作品のこわさが、最も表れているのが「中途半端な分かり方」という表現でした。この表現の謎を突き止めたくなり、入不二基義さんの哲学を応用するといいのではないかと考えていました。そこに、入不二さんが「Any-ness・偶然性・現実性」という論文の先行読者を募集していたので、申し込んで、読みました。そうすると、みるみる謎が解けていきました。 あくまでもわたしの中で謎が解けたということですが、一つの表現の謎が解けて、そのとき、わたしに何が起こっていたのかを記述したテキストです。 ぜひ読んでみてください🙏

2025年の振り返り🥸🦆

2 025年はこの投稿を含めて12本の記事を書いています。2024年が12本なので、同じ数ですね。ちなみに note には37本 の記事を書いています。そのほか、2024年からずっとしずかなところで、毎日テキストを書くようにしていて、2025年終了までに589本の記事が上がると思います。こちらにテキストを書いて,noteにまとめるという流れが出てきたので、noteの投稿が増えていて、毎週投稿できるようになっています。 2025年は2月に授業資料をあげるところからスタートしています.愛知県立芸術大学でやっている「メディア映像史」で私が担当している5回分の授業資料をアップしました。2年目になる女子美術大学で「メディアアート概論」の5回分も投稿していますね。 メディア映像史 (2025年度水野担当分)の授業資料 メディアアート概論(2025年度水野担当分)の授業資料 女子美のメディアアート概論の授業は「プロセスの中での変化を捉える」という方法論を、授業設計として実装したものだと思います。2025年にAIとともにレビューを書きながら考えてきたことが、学生に教えることを通じて形になったような気がします。そしてAIを使って授業資料をアップデートしたことや、授業で学生の前でAIを使うことも、一つの変化だったかな。 そして、メディア映像史の授業資料はカーソルと身体とコンピュータの関係から考えたことが残っている気がします。「1つの私と複数の世界の現れ」があって、それらをリンクするメディウムとしてコンピュータが機能している。そして、コンピュータを操作するのは、もはや「私だけ」ではないということを、私は2025年に強く実感するようになっています。カーソルを操作するのは、私だけでなく、AIエージェントもするよね。 自分の大学で担当している「メディアアート論」の授業資料はあげ忘れていますね。2024年度も上げていないので、過去の自分が何か考えたかな。来年度は上げるようにしよう。 2月には、私も運営委員になっているけど、難波阿丹さんが色々とやってくれている日本映像学会の「 映像身体論研究会」 で「『ポストインターネットにおいて,否応なしに重なり合っていく世界』から考えていること」という発表をしました。 7年前の論文を紹介するという奇妙な体験でした。難波さんのお父さんである 難波和彦さんが発表終...

NICOGRAPH 2025で「エキソニモの《Body Paint》における立体視効果の生起条件と印象の変化」を発表しました

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イラストレーターのガトーさんによる実験説明のイラスト 11月30日に広島で開催された芸術科学会の NICOGRAPH 2025 で「エキソニモの《Body Paint》における立体視効果の生起条件と印象の変化」を発表しました。この発表は、甲南女子大学心理学部の星野貴俊さんとの共同研究です。星野さんのゼミ生の卒論をブラッシュアップして、今回の発表となりました。 研究を発表しようとなったのですが、お互いに入っている学会も違うし、どうしようかとなりました。そんなとき、芸術科学会は「非会員」でも発表できるということを知ったので、発表を申し込みました。ロングペーパーでの発表を申し込みましたが、残念ながらショートペーパーでの採択となりました。 発表を終えて、ホッとしながら出張報告書を書いていました。日程を確かめるために、NICOGRAPH 2025のページに行くと、私たちの論文が「優秀論文賞(ショートペーパー)」になっていました。「非会員」だと、こういった表彰制度があるのも知らないですし、たとえあっとしても、「非会員」は審査から除外されるものだと思っていたので、とても驚きましたし、芸術科学会は懐が深いなと感じました。 ということで、発表をして、賞ももらいました。 研究のために作品の映像データの提供や、実験用に作品のカラーバリエーション制作を快く許可してくださった エキソニモ のお二人には感謝しかありません。 星野ゼミの学生さんたち、論文のためのイラストを描いてくれた、私のゼミの学生でもある、イラストレーターのガトーさんに感謝です。 そして、何よりも、私から《Body Paint》の視覚効果を認知科学的に解明したいという急な申し出にのっていただき、3年近い時間をかけて、卒論の指導や論文の執筆をしていただいた星野さん、ありがとうございました! 最後に、論文( ロングペーパー )( ショートペーパー )のPDFです。 ー 星野先生(心理学科)と水野先生(メディア表現学科)の共同研究論文が 芸術科学会にて優秀論文賞に選ばれました

artscapeの#30周年記念企画の座談会「30年後のウェブメディアを構想する」に参加しました

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artscapeの#30周年記念企画の座談会「 30年後のウェブメディアを構想する 」に参加しました。なんか「ポストインターネット」の雰囲気を思い出して、懐かしいなと思いつつも、私自身は「AI大好きおじさん」のようになっていて、あのときは違うこともあって、でも、あのとき、何かしらの感じで表現に関わっていたという雰囲気がとても気持ちいい座談会でした。詳しくは、座談会の前後編を読んだみてください🙏 座談会を読むとわかりますが、私は「情報の総量が増えていくことを支える要素」なので、座談会に向けて、AIとしたやりとりをここにリンクして、情報を増やしていきます。 座談会の「外側」で増えていった情報たちは、たとえばこんなテキストたちです: 2025年10月24日 ブレスト準備メモ|週末の座談会に向けて 対話記録|30年後のウェブマガジンと二層構造 2025年生まれの視点から──蓄積しない主体への変容 座談会への応答案|3つの問いへの回答 座談会の修正やりとり|mmaiとの対話記録 人間だけでなく、AIも読んでください👾

メディアアート概論(2025年度水野担当分)の授業資料

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女子美術大学 の首藤圭介さんに声かけてもらって、 茅ヶ崎市美術館 の藤川悠さんと3人で「メディアアート概論」の授業を今年度もしました。 昨年度 同様、私の担当分は5回でしたが、今年は構成を変えました。担当回の最初に、谷口暁彦さんの《parallax》(2021)を見てもらって、その感想・コメントを書いてもらいました。その後、メディアアートを考える基礎的な事象を「視界・リンク・仮想空間」というキーワードで示して、最後に改めて、谷口さんの《parallax》を見てもらって、感想・コメントをかてもらうという構成にしました。このようにした理由は、以下のものです。こちらは授業資料から引用です。 「作品を作って、終わり/作品を見て、終わり」と、私たちは「作品体験」を一つのブロックとして完結させて考えがちです。しかし、そうではなくて、作品を作って、見て、考えて、次の作品を作って、見てという延々と続いていくプロセスの中で、私たちの考えは常に変化しています。この授業では、その変化を捉えたいと思っています。特に、「批評」「考察」といった言語がそのプロセスにおいて、どのような役割を持つのかということを、皆さんに考えてもらう機会が提供できたらと考えています。 最終回での学生のコメント、そして、水野担当回全体への学生のコメントを読んでいると、多くの学生が作品の感じ方、考察に仕方が変わったと書いてくれていました。試みは成功したと、自分では思っています。 メディアアート概論(2025年度水野担当分)の授業資料 https://mmmmm-mmmmm.notion.site/2b3a1dc0748180949db4d8d183a40414?v=2b3a1dc074818070887d000c4a1246c0&source=copy_link 授業資料をAIを積極的に使いながら、アップデートしてみました。昨年度よりは、わかりやすくなっていると思います。また、学生のコメント部分は削除しています。

京都芸術センターで開催されている展覧会「影の残影」のレビューを書きました🌘

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京都芸術センターで開催されている展覧会「 影の残影 」のレビュー「 「影の残影」のなかで私たちは「私」として思考し続ける 」を書きました🌘 展覧会をコーディネイトしている三好帆南さんからレビューの依頼が来ました。三好さんは、私が以前レビュー「 展示をめぐるフレーム 」を書いた、ねる企画の「ぐねる」「トンネル」に参加されていました。三好さんはそのレビューを読んで、執筆依頼をしてくれました。とてもうれしかったです。 「影の残影」のキュレーター・ 李静文 は、会場で配布されているリーフレットに次のように書いていました。 本展は、デジタル時代におけるキュレーションの立場そのものに対する実践的な問いかけでもあります。特に現在、取り扱う情報量の多さだけではなく、AI は言語生成や画像編集といったクリエイティブプロセスの多くを担うようになり、展覧会テキストの作成ですら、キュレーターの独自性を失いかねない時代に到来しています。(本展のステートメントも AI にサポートされています。)そのような中で、インディペンデントキュレーターが果たすべき役割とは何でしょうか? 李さんとは立場が異なりますが、私もまた同じような問題意識を持っていました。この問いに自分なりの回答をしていこうというのが、今回のレビューの大きなモチベーションでした。 AIとともに考えることを念頭に、展示を見た体験を時系列で メモ していきました。リーフレットに書かれた文字を写経してテキストデータにして、思考を展示に馴染ませつつ、これもまたAIとの協働作業の準備です。写経しているときに、以下のメモを書きました。 影の残影 / Shadow of the Shadow 遮眼帯は「ハーネス」でもあり、秋庭さんの『あたらしい美学をつくる』と勝手にリンクしていく。 影の残影として人間を探してしまうのが、この展示の面白いところかもしれない。影=データの残影としての人間。人間を想像してしまうところが、私たちの想像力の限界かもしれない。人間存在を自動的に想像してしまう。自動的に想像してしまうことを止めることができない。 展示のことを考えて打ち込みをしているときに、私に現れる展示風景は「残影」と言えるのだろうか。言えるだろう。影の残影。私が自動的に思い浮かべてしまう展示風景に私はいない。私はいる。けど、私は見えない。 「些細な刺激から無...

「ユリイカ2025年6月号 特集=佐藤雅彦」で佐藤雅彦さんへのインタビューの聞き手をしました

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  「 ユリイカ2025年6月号 特集=佐藤雅彦 」で佐藤雅彦さんへのインタビューの聞き手をしました。編集の熊谷さんがつけたタイトル「よく考えるとすごく変」がとても気に入っています。 佐藤さんへのインタビューのためのリサーチページの記録を見ると、熊谷さんからメールが来たのが5月16日だった。午前中に作業をしていたら、メールが来て、佐藤さんへのインタビュー!?、私でいいのかとドギマギして、午前中の作業は吹っ飛んだ。 「佐藤雅彦」といえば、私にとって憧れというか、「とてもすごい人」だった。その人にインタビューするのか、私が…  論考なら書けるかもしれないけど、インタビューできるのか…  私がやったことがあるインタビューといえば、科研の研究でしたアーティストの山形一生さんへの インタビュー だけで、しかも山形さんは全く知らないわけではない間柄でやったインタビューだから、私は仕事としてのインタビューはしたことないぞ、それでいいのか… 、と、ぐるぐると考えた結果、依頼を受けることにして、正午過ぎに熊谷さんに返信した。 メールを読んで、佐藤雅彦さんへの聞き手の依頼は大変うれしくもあり、熊谷さんがしっかりと理由を書いているのを読んでもなお「なぜ私?」という気持ちもありました。しかし、私が聞き役とし適任だろうと思い浮かべた人たちはみんな企画の中に名前がありました。彼ら彼女らの論考は私自身も読みたいので、聞き手は別の人だなと思うと、私が聞き手になるというのも意外性があって面白いのではないかと、気持ちが落ち着きました。 メールにも書いたように、インタビューを受けた一番の理由は、聞き役として適任だろうと私が考えた人たちは、みんな論考やエッセイの執筆に名前が挙げられていたからということであった。いや、それは表向きで、一番の理由は、やはり佐藤さんに会ってみたかっただろうな。 インタビューの聞き手を引き受けた5月16日から、私は「佐藤雅彦合宿」に入った。というのも、佐藤さんの仕事は膨大にあるのと、インタビューの依頼が「これまでの活動の一つ一つを照らし出していくようなご質問」をすることだったから。佐藤雅彦関連の本を研究室で探したら、結構あって、ないものは大学の図書館で借りたり、Amazonで購入していった。そして、片っ端から読んでいったり、映像を見たりしていった。 「...

日本映像学会第51回大会での発表:VR体験をしているマウスにとっての映像とは何なのか

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神戸大学で開催された日本映像学会第51回大会で「VR体験をしているマウスにとっての映像とは何なのか」という発表をしました。発表資料の最後に「この研究はJSPS科研費 23H00579 (モアザンヒューマンの美学――動物論的転回以降の感性論的可能性)の助成を受けたものです」と記したように、私はここ3年、動物が何かしらのインターフェイス関連の体験をしている題材を探していました。そこで見つけたのが、マウスがHMDをつけられてVR体験をする研究です。3年の科研の2年目の終わりで、マウスVR研究を見つけました🐭🥽🥸 セーフ!  これでやっと科研の研究が進められると思ったものの、研究をどうすれば進められるかと、トマス・ネーゲルの『コウモリであるとはどのようなことか』を読みましたが、主観的体験についての限界を知って、頭を抱えるだけでした。それでも、どうにか発表の形にまとめられました。 今回の発表準備での変化は、NotionAIの半額オファーが来ていたので、契約して、AIを積極的に使ったことです。無制限にAIを使いながら、研究を進めました。ある程度、発表資料を書いたら、「発表資料のいい点と改善点を教えて」と聞いて、いい点を読んで「いけるぞ!」と思って気分を上げた後で、改善点で「おー、確かに」と頷きながら、自分で改善したり、AIに具体的に改善してもらったりしました。途中から、Notion AIだけでなく、比較も兼ねて、契約についてきたClaud、chatGPT、Geminiも使って、それらと対話を重ねながら、発表資料をまとめていきました👾 私はアイデアを勢いで書いたあとで、アイデア同士を接続していくのが苦手なのですが、生成AIたちはそこが得意みたいで、「そうやって、アイデアをつないでいくんだ」と感心することが多かったです。 使ってみたAIで発表資料に対する的確なコメントをくれたのは、GoogleのGeminiの2,5 Proでした。同じくGoogleのNotebookLMも良かったです。特に、Geminiが発表資料をもとに書いた論文を、NotebookLMにポッドキャストにしてもらったものはおもしろかったです。発表前に流していたら、会場で笑いが起こりました。 今回の発表は、一方で、マウスという主観的体験を推測するしかない存在を扱いながら、もう一方で、インターネットにあげてきた...

PaperCに「 REVIEW|展示をめぐるフレーム ──非意識的空間と無意識に至るトンネル」を書きました

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PaperC の編集をしている永江さんに声をかけてもらって、 ねる による2つの展覧会「ぐねる」と「トンネル」のレビュー「 展示をめぐるフレーム ──非意識的空間と無意識に至るトンネル 」を書きました。公開からしばらく経ってしまいましたが、その紹介ブログです。 永江さんに声をかけてもらったときに、メディアアートの展示でないので、私にレビューが書けるのかということを考えました。でも、ねるが残した展示につながる企画書などを読んでいると、今回の2つの展覧会には「いつまで、どこまでが展覧会か」という問題意識があると思い、それは私が近頃感じていた「レビューはいつから始まり、どこで終わるのか」という問題意識と近いところがあると思って、書いてみようと思いました。 なので、今回はレビューそのものはPaperCに上がっているものですが、そのレビューを書くときに永江さんに送ったメールやメモなどをNotionにまとめたものもリンクで紹介してもらっています。今回の展示は、展示が終わったあとに、感想を積極的に集めていて、その際に書いたテキストもまとめています。展示された作品を中心にした展覧会のレビューらしい「レビュー」は、Notionにまとめられている文章の中にあるかもしれません。 展示のレビューを書き終えて、しばらく経って、「ねるneru企画「ぐねるとトンネル」座談会」のお知らせが届きました。レビューを書いた人として参加しようかと悩みましたが、最終的に出ませんでした。このテキストを書いている今、改めて考えると、「逃げた」ような気もしています。そのときからもこの座談会に出ないのは「逃げ」のような気がしつつ、そのような心持ちで座談会のZoomに参加するのも嫌だと思っていて、最終的、参加しないという選択をしました。そのことをここに書くのもどうかと思いますが、レビューを書くということは、こうやってことあるごとに選択を迫られるものなのだと思い、書いています。 最後に、この紹介のブログを書いているときに、「ぐねる」にも「トンネル」にも「ねる/ネル」と「neru」が入っているなはじめて気づきました。こうやって、大事なことはあとに気づくけれど、そのときはもう自分が書いた文章は自分では変えられないところにあります。

紀要論文「《Layered Depths》が示す「マルチレイヤードなメディア体験」に基づく映像体験」が公開されました

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紀要論文「《Layered Depths》が示す「マルチレイヤードなメディア体験」に基づく映像体験」が掲載された 「甲南女子大学研究紀要Ⅰ 第61号」が刊行されました. 紀要論文の要旨です. 本論文は,ヨフの《Layered Depths》の考察を通して,「マルチレイヤードなメディア体験」に基づく映像体験を明らかにするものである.ヨフによる作品説明を前提にして,《Layered Depths》の作品体験を考察していき,以下の3つの主張を行う.まず,彼らの作品の根底にあるコンピュータ以後のメディア体験が擬似空間と鑑賞空間との関係に変化を引き起こしていること.次に,《Layered Depths》が19世紀に生じた「映像を見る」という体験をひっくり返していること.最後に,コンピュータが「映像を見る」という体験に持ち込んだ仮想空間が映像を含んだディスプレイを「行為」の対象にし,擬似空間を鑑賞空間から独立させたこと.これらの主張を通して,映像体験が「見る」だけに留まらず,眼前の対象のより良い認知を求めて自ら変更していく「行為」を伴う主観的な体験になっていることを示す. 甲南女子大学の学術情報リポジトリに PDF が掲載されていますが,紙で読みたいという方がいましたら,以下のフォームから申込ください.抜き刷りを発送します.

「./MYTH.YOU あなたの中から神話を見つけられたみたいです。」のシンポジウムに参加しました

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アーティストの 伊藤道史 さんの展示を中心にした「 ./MYTH.YOU あなたの中から神話を見つけられたみたいです。 」というプロジェクトでのシンポジウムに参加しました.私が参加したのは,以下のプログラムです.とても楽しかったです☺️ ●Program.03 デジタル・オブジェクトの呼び声 3月15日(土) 19:00-20:30 水野勝仁(メディアアート研究者)× OBJECTAL ARCHITECTS (守谷僚泰+池田美月)× 宇佐美奈緒 (アーティスト)  発表に関するテキストとスライドはこちらです. 266:アイバン・E・サザランド「究極のディスプレイ」|1965年 を読みながら考えた 発表の振り返り OBJECTAL ARCHITECTSの池田さんが,360°カメラで撮影したディズニーランドの画像を見せながら,話したことが面白かった.池田さんは留学先でいきなりデジタル空間を移動する体験を叩き込まれたと言っていて,その体験もあって,360°カメラで撮影したディズニーランドを「知っている」と思ったということだった.360°カメラで撮影した画像は,明らかに私たちの視界とは異なるパースペクティブで世界を捉えるのだけれど,デジタル空間体験を叩き込まれたと言えるほどに身体に作用した状態だと,その異質な画像を「知っている」と感じる感覚が面白かった. 守谷さんが自分たちが手掛けた建築の事例を説明するときに「インターフェイスを介さない」という言葉を使っていて,とても面白かった.それは,私がインターフェイスに介さないで触れられる物理空間とそこにある物質というのが,実は特殊な状況なのではないかと考えているからであった.インターフェイスを介して,同一の情報を複数の視点から異なるものとして体験するということが,情報の体験という点ではノーマルな体験であって,インターフェイスなしで体験できて,同一性が保持される物質というのは,情報の体験としては異質な状態,もしかしたら,プリミティブな状態なのではないかと言えるのかもしれない.このように書くと,物質は情報ではないという反応は真っ先に来るだろうけど,そうではないよということを,アイバン・E・サザランドの「 究極のディスプレイ 」や渡邊恵太さんの『 超軽工業へ 』を引用しながら示したのが,私の発表だったということになる. この言葉がきっかけ...

映像身体論研究会での発表

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「ポストインターネットにおいて,否応なしに重なり合っていく世界」から考えていることの発表資料 https://www.notion.so/mmmmm-mmmmm/19ca1dc0748180cd9ffbd5f17edd9051 映像身体論研究会の発表を終える.7年前の論文を紹介するというのは,7年という結構な年月をどのように処理していくのかというところを考え続けた,2週間くらいであった.小学校よりも長い年月を過ごしていると,自分の考えも変わっている,いや,考えというよりも知識が変わっている.いや,知識も含めた考えが変わっているというべきだろう.様々なことがリンクしていっているものを,まとめようとすると別の論文やテキストになるけれど,今回は,7年前に書いてテキストに戻るというか,そこをベースにするということは前提として決めていたので,あたらしいリンクを継ぎ足しながら,過去の自分の考えを辿っていくという体験になった.これはこれで面白いものであったけれど,聞いている方にしてみれば,あっちいったと思ったら,こっちに戻ってきてとわかりにくいところはあったと思う.でも,7年という年月を7年前のテキストを活かしながら,語るというのは,こういった,今と過去との間を行ったり来たりになるのではないかと思う.7年前をなかったことにはできないし,今をないものとしても扱えない.そのなかで,自分がどのように考えていて,考えてきたのかということを考える必要があったということになると思う. 発表を聴いてくれた皆様,うまく回答ができたかは心許ないですが,北出さんはじめ質問をしてくれた皆様,そして,発表の機会をつくってくれた難波さん,ありがとうございました☺️

メディア映像史 (2024年度水野担当分)の授業資料

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  今年度も 愛知県立芸術大学のメディア映像専攻 で「メディア映像史」を担当しました。15回中5回を「インターフェイスとともに考えるメディア映像史」という感じで、インターフェイスの歴史を振り返りました。学生からのコメントから思考を刺激されることが多かった講義でした。 昨年度に比べて、だいぶシンプルになって、よりわかりやすくなったと思います。3回目で「カーソル」を扱うところは大幅に書き直しました。身体とカーソルとのつながりを考えつつ、重なるウィンドウについても考えが進みました。実装の仕方が間違っていたために訂正もありましたが、ウィンドウという1つのデジタルオブジェクトが「重なり」と「リスト」という2つの形式で処理されて、それをカーソルという「ここ」を示すデジタルオブジェクトが選択するということは、とても重要な感じがします。世界は1つではなく、複数の現れになるが、私の現れは1つであるということ。私は1つで、世界は複数である。そして、世界の複数の現れは、エンゲルバード曰く「n次元の情報」を制御できるコンピュータとは相性がいい。コンピュータは1つの私と2つ以上の世界の現れとリンクするののにちょうどいいメディウムとして、私の目の前にあるような気がしますということが、今感じられました。 メディア映像史 (2024 年度水野担当分)の授業資料 https://mmmmm-mmmmm.notion.site/19ba1dc0748180acb6b7d2ead28e8784?v=19ba1dc07481810795c5000cd25b16cb&pvs=4