メディア映像史 (2024年度水野担当分)の授業資料

 


今年度も愛知県立芸術大学のメディア映像専攻で「メディア映像史」を担当しました。15回中5回を「インターフェイスとともに考えるメディア映像史」という感じで、インターフェイスの歴史を振り返りました。学生からのコメントから思考を刺激されることが多かった講義でした。

昨年度に比べて、だいぶシンプルになって、よりわかりやすくなったと思います。3回目で「カーソル」を扱うところは大幅に書き直しました。身体とカーソルとのつながりを考えつつ、重なるウィンドウについても考えが進みました。実装の仕方が間違っていたために訂正もありましたが、ウィンドウという1つのデジタルオブジェクトが「重なり」と「リスト」という2つの形式で処理されて、それをカーソルという「ここ」を示すデジタルオブジェクトが選択するということは、とても重要な感じがします。世界は1つではなく、複数の現れになるが、私の現れは1つであるということ。私は1つで、世界は複数である。そして、世界の複数の現れは、エンゲルバード曰く「n次元の情報」を制御できるコンピュータとは相性がいい。コンピュータは1つの私と2つ以上の世界の現れとリンクするののにちょうどいいメディウムとして、私の目の前にあるような気がしますということが、今感じられました。

メディア映像史 (2024年度水野担当分)の授業資料

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