「./MYTH.YOU あなたの中から神話を見つけられたみたいです。」のシンポジウムに参加しました
アーティストの伊藤道史さんの展示を中心にした「./MYTH.YOU あなたの中から神話を見つけられたみたいです。」というプロジェクトでのシンポジウムに参加しました.私が参加したのは,以下のプログラムです.とても楽しかったです☺️
●Program.03 デジタル・オブジェクトの呼び声 3月15日(土) 19:00-20:30 水野勝仁(メディアアート研究者)× OBJECTAL ARCHITECTS(守谷僚泰+池田美月)× 宇佐美奈緒(アーティスト)
発表に関するテキストとスライドはこちらです.
266:アイバン・E・サザランド「究極のディスプレイ」|1965年 を読みながら考えた
発表の振り返り
OBJECTAL ARCHITECTSの池田さんが,360°カメラで撮影したディズニーランドの画像を見せながら,話したことが面白かった.池田さんは留学先でいきなりデジタル空間を移動する体験を叩き込まれたと言っていて,その体験もあって,360°カメラで撮影したディズニーランドを「知っている」と思ったということだった.360°カメラで撮影した画像は,明らかに私たちの視界とは異なるパースペクティブで世界を捉えるのだけれど,デジタル空間体験を叩き込まれたと言えるほどに身体に作用した状態だと,その異質な画像を「知っている」と感じる感覚が面白かった.
守谷さんが自分たちが手掛けた建築の事例を説明するときに「インターフェイスを介さない」という言葉を使っていて,とても面白かった.それは,私がインターフェイスに介さないで触れられる物理空間とそこにある物質というのが,実は特殊な状況なのではないかと考えているからであった.インターフェイスを介して,同一の情報を複数の視点から異なるものとして体験するということが,情報の体験という点ではノーマルな体験であって,インターフェイスなしで体験できて,同一性が保持される物質というのは,情報の体験としては異質な状態,もしかしたら,プリミティブな状態なのではないかと言えるのかもしれない.このように書くと,物質は情報ではないという反応は真っ先に来るだろうけど,そうではないよということを,アイバン・E・サザランドの「究極のディスプレイ」や渡邊恵太さんの『超軽工業へ』を引用しながら示したのが,私の発表だったということになる.
この言葉がきっかけだったかは忘れてしまったけれど,池田さんが「デジタル空間がそこにある」と言っていて,これがとても興味深かった.私だったら「現実空間とデジタル空間が重なり合う」と言ってしまうのだが,2つの空間が重なり合うとかなしに「デジタル空間がそこにある」という感じはとてもしっくりきた.伊藤さんもこの言葉に興味を持って,このことについて質問してくれた.そこではうまく答えられなかったかもしれないので,帰りの新幹線の中で引き続き考えた.
私は「デジタル空間がそこにある」ということを信じたいと思っている.それはポジショントーク的なところがあって,そのように信じることで,自分の考えを進められる原動力になるし,他の人と考えを差別化するような感じである.しかし,池田さんは,もっとナチュラルに「デジタル空間がそこにある」と言っている感じがある.そこにあるデジタル空間を探索していく.デジタル空間は現実空間と重なり合うとかではなくて,もうそこにあって,そこにあるものを探っていくような感覚になっている.それは,デジタル空間というインターフェイスが制約となる空間で,その制約が「制約」のままナチュラルになっているという感じだろうか.
宇佐美さんも「自分の願望・想像を3Dソフトウェアの制限の中でいかに表現をするのかということを考えている」と言っていて,池田さんと同じような感覚なのではないかと思って,話を聞いていた.宇佐美さんの考えから離れてしまうかもだが,サザランドが「Sketchpadの「制約」のように,これまでは視覚的に表現できなかったコンセプトを実現できる」と書くように,ソフトウェアの「制約」はあたらしいものであって,それは物理空間における認知と行為からすれば「制約」だけれど,その「制約」もそこにあるものとして,ナチュラルに受け取れば,これまでとは異なる別の表現が生み出せる可能性持っていると言えるだろう.
また,司会の西山萌さんが宇佐美さんとの打ち合わせで出てきた物質空間とデジタル空間における「情報の交換」ということ私の発表で示した物質世界,想像世界,デジタル世界という3つの世界の情報の交換が行われているとすれば,なにがその交換を行なっているのかという質問をしてくれた.それを受けて,私は3つの世界を跨いで情報の交換をしているのは自分の身体だと答えた.3つの世界それぞれがそこにあるとして,それらを関係づけるという,3つの世界を含んで,あるまとまりをつくる存在があるとすれば,それは自分の身体以外にありえない.それは自分の身体を情報処理装置として考えることになる.
伊藤さんのVR作品を体験して,私は変な喉の渇きを感じたのだが,それは私の身体が通常とは異なる情報を非意識レベルの受け取っていたからではないだろうか.VRだから可能になるこれまでに感覚の体験があって,それは私たちが想像はするけれども,これまでは想像世界から引っ張り出せなかったものを,VRというあたらしいインターフェイスによって,他の人に伝えるような表現にできて,その結果として,私の身体と3つの世界とのあいだであたらしい情報交換が行われたのではないだろうか.このとき,非意識レベルで何か異なっていることが起こっていることを知らせる身体へのアラートとーして,喉が変な感じで乾いたのかもしれないと,私は信じている.