カーソルと分身

ホラー映画における「分身」を考察した川崎公平(「根拠なき分身:黒沢清『ドッペルゲンガー』における断続の諸相」,「映像学」No.83)は,分身には「交代」と「並置」があると指摘している.死んだりした人が,もうひとりの人として画面にあらわれるのが交代.また,同じ人が画面に同時に登場するのが並置.マウスの分身としてカーソルを考えると,それは「交代」なのか,それとも「並置」なのか.画面上にはカーソルが1つしかないところから,カーソルはマウスと交代しているとも言えるが,インターフェイス全体からみればマウスとカーソルとは同時に存在して機能しているとも言えるので,並置とも考えられる.いや,そもそもマウスとカーソルは同一の存在ではないから「分身」ではないとも言える.

川崎は論考の最後で「交代」でも「並置」でもない「根拠なき分身」という存在を提唱する.カーソルはカーソルでありながらマウスでもあり,マウスはマウスでありながらカーソルでもあるような状態.カーソルとマウスはイメージとモノとのあいだでそれぞれの存在が二重化したものなのだ.私たちはこの存在の根拠が二重化して,曖昧になっているカーソルを簡単に受け入れている.カーソルはヒトの分身でありながら,コンピュータの分身でもあり,モノでありながらイメージでもある.「カーソル」をそのまま「分身」として認識し,それを根拠を欠いたまま受け容れることは,コンピュータと接するヒトをモノとイメージへの「分岐の可能性を孕んだ存在」へと変容させる.だから,カーソルというイメージを身体の拡張と感じてしまうのである.

このブログの人気の投稿

MASSAGE連載12_ディスプレイなきディスプレイ場/ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

札幌国際芸術祭のメモ:松江泰治とラファエル・ローゼンダール

MASSAGE連載09_小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる

カーソルについての講義のコメントに対するコメント

スライド:映像文化 第4回|テレビ:同じ時間にみんなで見るから,共有の場へ

告知:第4回新視覚芸術研究会「デジタル時代の次元の折り重なり」【追記_2017/08/08】

《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」

メモ:台風→情報の流れ→GIF→複合体としての主観