YCAM/DESKTOP という境界線,ズレを吸収する構造としてのレイヤー



映像は,YCAM で行われていた Semitra Exhibition "tFont/fTime" の会場風景を中継するサイトをキャプチャーしたもの.正確には,キャプチャーした映像を,さらにキャプチャーしたもの.なんでこんなややこしくなったかというと,ただ最初にキャプチャーした映像が Youtube にアップロードできなかっただけの話なんです….

最初のページで気になるのが,YCAM/DESKTOP の境界線.DESKTOP 領域では見えているカーソルが,境界線を越えて YCAM に行ってしまうと,見えなくなる.見えなくなっても動かすことはできるので,境界線を越えて DESKTOP に帰ってくると,カーソルはまた見えるようになる.近頃,ウェブサイトでも広告やゲームなので,ある領域にカーソルが入ると非表示になるというのよくあるので,カーソルが消えること自体は新しくともなんでもないのだけれど,YCAM/DESKTOP という境界線の設定が興味深い.YCAM での展示風景というリアルな空間に行くとカーソルが消えて,デスクトップという仮想領域ではカーソルが見える.でも,私の実感ではデスクトップの方が現実的で,YCAM の方が仮想のような気もする.実際に体験していないという意味で.でも,もう現実/仮想という区分け自体がしっくりこないので,単に「遠い/近い」ということだけかもしれない.「遠く」に行けば,カーソルが見えなくなり,「近く」に来るとカーソルは見えるようになる.ただ,「遠い/近い」を行き来している間も,カーソルを動かしている自分の手は,確実に私の側にあり続ける.カーソルが「遠く」に行ったとしても,手はカーソルが見えているかのように,それが「近く」にあり続けるように動く.YCAM/DESKTOP という境界線の設定は,この境界線が設定されていなければ,別に感じることもないカーソルに対する感覚の捻れを私たちに与えてくれているような気がする.ヴィレム・フルッサーが言っていようなような「私の在り方」を決めることに,「YCAM/DESKTOP という境界線」は関わっているのではないだろうか? 相対的な空間の中で<ここ>を決めようとしている私の在り方に対して,私の身体は<ここ>ではなくて<原点>であろうとするために捻れが生じるのではないだろうか?
空間は,われわれにとって相対的である.<ここ>とは,われわれのいるところであり,それが空間の中心でもあるのだから.デカルト的な座標軸の<原点>は,私である.線形的意識にとって原点は絶対的であり,だからこそ何処でもよいのだが,[テクノイマジネーションにとっては]そうではなくて,原点は私の在り方によって決まる[その意味で相対的な]ものであり,この在り方によって与えられるのである.さまざまの対象物は私の周りで,<ここで>現に在ろうとひしめいている.それらは,私に向かって立っており,未来を見るための私の視界を塞ぐものだから,<対象物>(客体)であるとともに私に逆らう<対立物>でもある.それらは,未来からやってきて,近づけば近づくほど<実効的>になる(ますます強く私に作用する).(pp.281-282)
ヴィレム・フルッサー『テクノコードの誕生』(1996=1997 [執筆時期は1973-74])
次の映像では,文字の連なりの中に白いカーソルが3つある.普通,1つの画面にカーソルは1つしかない.だから,マウスなどでカーソルを操作するときに自分の動きとカーソルの動きはほぼ対応している.迷いようがない.もし,画面に常に2つのカーソルがあったらどうであろうか.2つともが自分の動き対応していても,それはそれで困るだろうし,そのどちらかだけが対応しているとしても,動かした最初の数秒はどっちが自分の動きに対応しているか判断がつかないだろう.2つのカーソルが違う形をしていれば見分けがつくかもしれないが,この映像に映っているカーソルはどれも同じ形をした3つの白い矢印と,黒い矢印が1つもしくは2つである.3つの白い矢印の方は,体験していないのでわからないが,恐らく,最初は自分がどれを動かしているのかはわからないと思う.1つもしくは2つの黒い矢印は,私が動かしていたものでだが,それらには時間差がある.最初に映像をキャプチャーしたときのものと,その映像をさらにキャプチャーしたときのもの.白い矢印は時間的には同一で,動かしている人がちがう.黒い矢印は動かしている人は同じで,時間がずれている.でも,ディスプレイに映り込んでしまえば,人の違いや時間のずれは関係なくなる.それぞれのズレを解消してしまうのは,コンピュータのディスプレイに映るものがレイヤー構造を持っているからではないだろうか.レイヤーといっても厚みをもたず,透明な層の積み重ねであるから,すべてが私たちの側にあるかのように見えるが,その見えの中で,レイヤーは多くのズレを吸収している.ズレを吸収する構造としてのレイヤー.

このブログの人気の投稿

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

Poi Vol.1 featuring Nukeme_PDF

スライド:映像文化 第4回|テレビ:同じ時間にみんなで見るから,共有の場へ

身体|カーソル|イメージ:カーソルによって切り替えられる世界

紀要論文「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」(追記:2017/09/07)

授業ノート:ポストインターネット時代の芸術作品_ネット公開用

MASSAGE連載09_小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる

授業ノート:ディスプレイ時代の芸術作品_ネット公開用

アニメのセルがもつツルツルなクリーンさをダーティにしてみると…