薄さの閾値


2014年の日常を描いた動画.主役は,タッチ型インターフェイス.
デバイスが薄い.もうディスプレイしかない.この薄さがとても気になる.ちょっとしたことで,壊れてしまうような薄さである.動画の最初,目覚ましがなっているところがあるのだけれど,昔ながらのベルの目覚まし時計のモノとしての存在感と,その手前に置かれた薄いデバイスとの対比が面白い.

デバイスの操作は,iPhone から変わっていないみたい.ディスプレイに手を伸ばす.歯を磨きながら,鏡に映し出された映像を操作するところは大袈裟にも見えるけれど,みんなやりだすのであろうか.鏡,机の上とありあらゆる平面に情報が映し出される.

オフィスで使われているディスプレイは半透明で,向こう側が見えるようになっている.これは,おそらくディスプレイの透明度を自由に変えられるようになっているのであろう.

この映像を見ていると,私たちがこれほどまでに「平面」を意識することがあっただろうかというくらい,薄い平面が生活に溢れている.鏡は今もある,でもそこに情報が投影されることで,透明な鏡の上に薄い膜がかかっているようで,鏡が平面であることを意識してしまう.壊れないように手でもっているデバイスは厚みを感じさせない.持つことできる薄い平面.机の上のディスプレイも平面である.しかも,半透明でその存在感は限りなく薄い.しかし,これらの平面は確かに薄いけれど,それは持つことが,あるいは操作することができる「厚み」をもっている. 

まだよくわからない.iPhone や iPad で行っていることの延長なのか.それとも,これらのデバイスが薄さの閾値を超えたときに,全く異なる体験が生まれるのか.デバイスが「薄く」なっていって,そこに映し出されているイメージ,情報があたかもそれだけで存在しているような感じなっているのか.でも,それは夜にiPhoneをいじっているときにも感じる.しかし,そこには確かにモノとしての厚みを感じてもいる.モノとしての「厚み」はどこまで感じるのであろうか.モノをモノとして感じないで,単なる平面,あるいはカードと感じてしまう閾値はどこにあるのか.カードもモノであると言えばそうであるが,モノをたんなる平面だと感じてしまう薄さの閾値はどこになるのか.

もしかしたら,これらかのインターフェイスはモノと平面(イメージ)とのあいだを自由に行き来できる「薄さ」の閾値を探しだすことが重要になってくるのかもしれない. 

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