ないと思ったのに,あったよ,いてー

Yoshii-Blog より




















指にカーソルを描いてしまうという発想.私は iPad を持っていないので,iPhone の小さな画面で試してみたけれど,描きやすかった.指に描いた印に意識が集中して,その印とディスプレイ上の線が直接つながるような感じで,Yoshii さんが「透明な指」と書くような感覚が味わえる.でも指は確かにあって,指がガラスに引っかかる感覚が普段よりも強く意識されました.

ディスプレイ上にある「↑」の形をしたカーソルっていうのは,不思議なイメージだと思います.それは手の延長なのか,手そのものなのか,それとも上のように「透明な指」なのか,あるいは手とは切り離して考えるべき何かなのか.「指にカーソルを描く」を試して見て一番しっくりくるなというのは,カーソルは「透明というか変幻自在に変形するかつ,重さというか摩擦がない手」なのではないかということ特に「重さというか摩擦がない」という部分が,普段の私たちの生活の中ではあまり体験出来ないことで,だから,カーソルの特徴として考えられてはいないのではないかと思う.

だけど,「透明かつ変幻自在に変形し,摩擦を生じさせない」ときたら,それはもう手ではない.そもそもカーソルはモノではない,イメージである.でも,それを手だと感じてしまうこともある.イメージとしての手.

しかし,私たちが普段何げなく使っていて,対象とのあいだで物事がうまくいっているときの手は「透明かつ変幻自在に変形し,摩擦を生じさせない」存在となっているともいえる.カーソルを操作している時にしても,ハンマーで何かを叩いている時にしても,手はそこにあることを意識させないくらいに透明な存在として道具と入り混じる.先にあるのがモノであろうとイメージであろうと関係なしに,手はそれらと馴染みながらも,そこにモノとしてあり続ける.

だから,指にカーソルを描くとちょっとおかしな感覚になる.印を手に描くことで,モノとしてある手を強制的にイメージにしてしまうような感覚.放っておいても手は,対象の道具と馴染むことで「透明かつ変幻自在に変形し,摩擦を生じさせない」イメージのような存在になる.手のイメージ化.しかし,それを強制的に行うと,手のモノ的な部分がその変化についていかず,モノとモノとのあいだに起こる摩擦が強く意識される.でも手が透明になったかのように感じてもいる.

透明なモノに摩擦があるのだろうか,透明なモノに重さがあるのだろうか,透明なモノは,そもそもモノなのだろうか.いや,完全に透明なモノなんてあるのだろうか.

透明というのは,向こう側が見えること.向こうが見えるということは,そこに視線を遮るモノがないということを今まで意味してきた.だから,透明なガラスはそこにないモノとして考えられる.よって,たまに衝突事故が起きる.向こうが見えるのだったら,通れるはず.でも,そこにはガラスがあった.ガシャーン.

とりとめもなくなってしまいましたが,指にカーソルを描くというのは,完全に透明なガラスへの衝突事故にあったような感覚です.ないと思ったのに,あったよ,いてー,みたいな.

以前書いたもの:カーソルの「重さ」を考えるためのメモ

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