アイコンが示す曖昧さと正しさ


図3-3 ディピントゥーラ,ヴィーコの『新しい学』1744年版の口絵

前節で,プログラムという言語的記号が創造するアレゴリーによって,アイコンという絵画的記号が生み出されることが明らかになった.しかし,まだ,アイコンの性質は明らかになっていない. 
アイコンの性質を考察するために,フレッチャーがジャンバッティスタ・ヴィーコの『新しい学』を論じたテキストを参照する.ヴィーコの『新しい学』の巻頭には,一枚の銅版画の口絵,『ディピントゥーラ』が掲げられ,その後に,「扉頁の前に置かれている絵の説明」3-47) が書かれている.
地球儀,すなわち,自然の世界の上に立っている,頭に翼を生やした女性は,形而上学である.これが形而上学という名辞の意味であるからである.…… 真ん中にある地球儀は,つぎに自然科学者たちが観察することになった自然の世界を表象している.そして,上部にある象形文字は,最後に形而上学学者たちが観照するにいたった知性ならびに神の世界を表示しているのである.3-48
この口絵と説明としてのテクストの関係を,フレッチャーは次のように指摘する.
ヴィーコは『新しい学』の図もしくは「口絵」つまり『ディピントゥーラ』で始めるとしても,彼は同時に,「本書の序論の役を果たすために口絵として置かれた絵の説明」という長大な文章──英語版で二十三頁──も提供してくれているのである.この「説明」は,『ディピントゥーラ』が二十三頁分を,ひいては『新しい学』全体を単一の複雑なイメージへ還元することを,言葉によって示しているのである.そうすることによって『ディピントゥーラ』は,時間的に引き延ばされた言葉の構築物を,共時的な象徴的手段によって兼務する.画像は一見したこところ覆すこともなく,テクストを図式化するのである.3-49)
ここで,フレッチャーは,充分の長さをもった言語による「説明」自体が,自らを説明することによって,イメージへと還元していくと指摘している.それは,読んでいると,言語の線形性によって,不可逆的に築かれてしまう「時間的に引き延ばされた言葉の構築物」が,要素全体を同時に見せる旋回性を示す絵画的記号として圧縮されていくというプロセスである.この過程の中で,言葉の意味は,絵自らが生み出す「共在の秩序」に従って,配置されていく.そうして,言語による時間的な構築物は,平面を支える構造となって,自らの存在を隠すことで,新たな絵画的記号を表出していると考えられるのである.たしかに,『新しい学』の冒頭の絵は,読み手の理解を深めるものとして有意義なものである.しかし,ここで重要なのは,その絵の理解のためには,充分な長さの「説明」が必要ではないだろうかと問いを発することである.フレッチャーも,「図の中に二つ以上の点があるかぎり,詩が空間から空間へ,点から点へと移動する時,時間の推移のない系列を想像することができるだろうか」3-50) という問いを立てている.
絵が示すものたちは,充分に長い「説明」があるからこそ,再び,時間的に配置されて,読み手に理解される.説明がなければ,この絵の意味は,無数に宙に漂い続ける.なぜなら,その解釈の自由さが,旋回性を示す絵画的記号の特徴だからである.だから,たとえ説明が一義的なものを強制するとするにしても,絵の意味を定着するには,言語的記号によるテクストが必要なのである.それは,言語とそれが体現する論理が,時間と「暴力的に結合されている」3-51) ゆえに,絵画的記号との関係において,隠蔽されていた時間が,再び,動きだすということを意味する.このことから,「共在の秩序」から生じる多くの列の組合せによって生じる絵画的記号を理解するために,その分析を「空間的に始めるという事実にもかかわらず,時間的記述の旋律を奏でて終わる」3-52) ということが,常に起こってしまうのである.
ここでアイコンとプログラムの関係に戻りたい.アイコンは,先に指摘したように,プログラミング言語によって創造されたアレゴリーによって,言語的記号に象徴的な剰余の部分が生じ,それが絵画的記号となったものである.それは,他の絵と同じように,時間と強く結びついた言語的記号へと還元できるはずである.しかし,アイコンを生じさせるために適したオブジェクト指向型プログラミング言語の特徴である情報隠蔽によって,その言語の部分,つまり,逐次的情報処理の部分は,常に隠されている.アイコンは,この情報隠蔽から生じる構造を持つがゆえに,自らを生み出している言語の部分を常に隠してしまうものとして,デスクトップに映し出されている.
この絵画的記号が,言語的記号を常に隠してしまうという意味で,コンピュータにおけるアイコンとプログラムの関係は.ヴィーコの絵と説明文の関係と異なるのである.従来は,字義が表層であり,アレゴリーが隠された層であったものが,コンピュータでは,アレゴリーが表層となり,字義が隠された層となっている.私たちは,古来,字義の層に入り,そこからアレゴリーの層を構築し,探索してきた.だが,コンピュータ・ディスプレイでは,はじめからアレゴリーによって作られたアイコンが表示されている.つまり,ディスプレイの表面で,意味を求める私たちの探索は終わってしまうのである.ヴィーコの本の読者のほとんどが,絵を見たあとに,文章を読むのに対して,アイコンを表示するアレゴリーの層が機能しているときに,アイコンの本文であるプログラムという字義の層を求めるヒトは,ほとんどいない.私たちは,本文の字義を知ることなく,ディスプレイ上を旋回しながら,その平面に表示された絵画的記号が示す意味を曖昧なまま得ているのである.
では,なぜ,私たちは,アイコンの曖昧な意味を確かめようとしないのであろうか.プログラムが創造するアレゴリーから生み出されるアイコンは,CPU が強制する字義通りの意味から完全に解放されているのかというとそうではない.何度も記したように,それはただ隠蔽されているにすぎない.アイコンは,線形的なプログラムのように字義通りの意味を,ユーザに要求することはないが,その読みは制限されたものである.なぜなら,アレゴリーとは,読み手に字義通りの意味を越えた解釈をもたらすと同時に,外部から加わる強固な論理によって「正しい」読みを与えられ,読み手の多様な読みを制限するものだからである.3-53) しかし,アイコンは,その解釈の可能性を制限されているとはいえ,言葉の意味を越えた読みを孕んだ象徴性を有するものとして,私たちを字義通りの逐次的な意味の追求から解放するものとして機能している.この解釈の可能性の制限と字義からの解放が,アイコンの性質を規定している.
アイコンは,自らが示している意味を,言語的記号によって時間的引き延ばされることがないので,その字義によって定着されることがないまま,デスクトップ上を旋回し続ける曖昧な絵画的記号であるということができる.同時に,アイコンは,プログラムとのアレゴリーの関係によって,正しい読みが与えられている絵画的記号でもある.アイコンは,曖昧さと正しさという相反するものを同時に,私たちに引き受けさせるものなのである.曖昧でありながらも,正しさも示すがゆえに,私たちは,プログラムの層へと入り込むことなく,アイコンと向かい合い続けるのである.それゆえに,私たちは,アイコンを明確に名指すことができずに,ただ「これ」と指さす選択行為をするのである.つまり,アイコンは,プログラムとアレゴリーによって結びついていることによる解釈の自由の制限による正しさと,字義に定着されない曖昧さという二重の意味で,私たちを指さす選択行為へと導く絵画的記号なのである.

図3-3
ジャンバッティスタ・ヴィーコ,『新しい学 1』, 上村忠男訳, 法政大学出版局,2007,口絵
3-47)
同上書,p.5
3-48)
同上書,pp.5-50
3-49)
アンガス・フレッチャー,『思考の図像学』, 伊藤誓訳,法政大学出版局,1997,p.214
3-50)
同上書,p.241
3-51)
同上書,p.242
3-52)
同上書,p. 241
3-53)
Angus Fletcher, “Allegory”, Cornell University Press, 1964, p.305

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