アレゴリーを創造するプログラムという言語的記号

既に述べたように,プログラミング言語とは,ユーザと対話するものである.同時に,CPU とも対話するものであるがゆえに,ヒトにとって不可解な記号となっていた.スミスは,私たちにとって異質なものとなってしまった言語的記号を,アイコンという絵画的記号で示すことで,コンピュータとヒトという異なる秩序をもったものの間に,新たな対話環境を作り出そうとした.やがて,この対話環境が「機械の中にある世界と,人間の中の世界をメタフォリカルに重ねていこうという考え方」3-36) に基づいて,アイコンは現実世界との類似が求められていった.その結果,コンピュータ・ディスプレイは,現実世界に類似していなければならないというアナロジーの原理によって生み出される絵画的記号によって支配され,コンピュータの逐次的情報処理が現実世界と比喩的に結びつけられたデスクトップ画面が生まれることになる.
コンピュータを,ヒトの直観は視覚的なものであるという信念に基づいて,ケイは,ノイマンロジックによる逐次的情報処理を隠蔽することで,絵画的記号を表示するための平面を作った.その平面に,スミスがコンピュータを操作するための絵画的記号,アイコンを導入した.けれども,アイコンを表示することは,コンピュータにしてみれば,従来通りの言語的記号の逐次的処理の結果として生じているにすぎない.確かに,情報処理という観点からみれば,プログラムという言語的記号の指示によって,ディスプレイ上の点が塗りつぶされていくだけである.そして,その塗りつぶされたものを,ヒトが,言語的,絵画的記号のどちらかとして解釈する.この意味で,ディスプレイに映し出されているものが,絵画的記号か,言語的記号かを決めるのはヒトであって,コンピュータにとって,それは点の集まりにすぎない.
しかし,ここで問題としたいのは,アイコンが,プログラムによって塗りつぶされた点の集合だということではない.この説明は,コンピュータがプログラムによって,アイコンを「どのように」ディスプレイに表示していくのかを教えてくれる.だが,ヒトにとって何万行もの膨大な言語的記号の集まりといえるものが,ディスプレイに表示される時に,「なぜ」絵画的記号の集まりといえるものになるのかは分からないままである.つまり,デスクトップ画面と呼ばれることになるインターフェイスのレベルで,プログラムという言語的記号が,アイコンという絵画的記号となって表示されるのは「なぜか」という問いが,まだ残っている.
この問いを明らかにするための手がかりは,私たちとアイコンとの関係を説明する言葉にあると考える.アイコンと私たちの関係の説明には,「アナロジー」や「メタファー」という,古くから私たちが使ってきた言葉が与えられている.しかし,プログラムがアイコンを表示する過程には,このような私たちにとって有意味な言葉が使われることがなく,それはただ「計算結果」という語で済まされてしまっている.このアイコンとプログラムとの関係を「計算結果」という情報処理の言葉ではなく,アナロジーやメタファーのような私たちにとって有意味な言葉で考察することが,上記の「なぜか」という問いを明らかにするひとつの方法だと考える.
プログラムという言語的記号が,アイコンという絵画的記号を作り出し,表示している.ここにはどのような関係性があるのであろうか.この関係を考えるために,再びライプニッツを参照する.ライプニッツは,「観念とは何か」の中で,次のように書いている.
何か或るものを表出するとは,表出されるべき事物の内にある諸関係に対応する諸関係を自分の内に持っているものについて言われることである.だが表出は様々である.例えば機械の模型は機械そのものを表出しているし,平面上の事物の射影図は立体を,発言は思惟や真理を,数字は数を,代数の方程式は円や他の図形を,表出している.そして,これら諸表出に共通なのは,表出しつつあるものの持つ諸関係を観察するだけで,表出されるべき事物の持つ対応する固有性の認識へ到達できるということである.したがって,表出するものが表出される事物と類似していることは必要でなく,ただ関係の或る種の類比が維持されるだけでよいことは明らかである.3-37)
ここで注目すべきなのは,「表出するものが表出される事物と類似していることは必要でなく,ただ関係の或る種の類比が維持されるだけでよい」という記述である.プログラミング言語が,アイコンを作り出しているという事実は,これらの間に「関係の或る種の類比」が保たれていることを意味する.このことから,ひとまず,プログラムとアイコンの間には類比,つまり,アナロジーが維持されていると考えて,考察を進めていく 
しかし,なぜ,プログラムとアイコンの間にはアナロジーが維持されているのであろうか.コンピュータにおける記号の意味を考察した P. B. アンデルセンは,コンピュータのようなシステムモデルは,システムの記述から生じるものであり,このことが,ヒトとコンピュータの言語の使用における違いとなっていると指摘する.そして,コンピュータは,システム全体に関する記述がなければ何も出来ないのに対して,ヒトは,システム全体に関する記述がなくとも,機能することができると書く.3-38) つまり,ヒトがコンピュータに与える論理世界においては,プログラムが記述する関係が絶対的な秩序となるのである.よって,コンピュータ・プログラムは,アナロジーを生み出す条件を,自らの論理において作り出すことができるのである.これが,人間が使用する言語との大きな違いである.このことは,コンピュータが,言葉の意味の定義を厳密にすることと,二つのものごとを結びつける関係を自由に決めることが出来るということを意味する.その結果として,プログラミング言語は,厳密な意味の定義と,限りないアナロジーの連鎖という相反するものを孕む可能性を持つことになるのである.
ここから,線形的プログラムは,言語の定義を厳密に追求したものであり,オブジェクト指向のプログラムは,アナロジーの連鎖を使ったものということできるのではないだろうか.なぜなら,線形的プログラムが,CPU の論理を記述するために,意味を厳密に定義していくことで機能する分析的な言語体系なのに対して,オブジェクト指向のプログラムは,それぞれのオブジェクトが,自らをつくり出す厳密な定義の部分を隠蔽して,「あたかも何かのようだ」という外観に基づいた関係を,オブジェクト間に生成しつつ機能する言語体系だと考えられるからである.
プログラムは,ヒトが関係を与え,各要素をつなげていくものである.しかし,ヒトが与える関係だけでなく,線形的にしろ,オブジェクト指向にしろ,コンピュータにおけるプログラムには,言語の外部に存在する強固な力として,CPU のノイマンロジックが存在している.それが,すべてのプログラミング言語に介入し,要素を繋げている.この介入のために,すべてのプログラムは,ノイマンロジック上で正しく実行されるように書かれなければならない.つまり,ヒトがプログラミング言語を形成する関係のすべてを記述しなければならいのであるが,その記述される関係は,CPU によって強制されたものなのである.
CPU の強制によって,ヒトはプログラムを記述することになる.プログラムを記述するとは,私たち自身が,要素の間にアナロジーを見つけだし繋げていくというよりも,CPU の力の中で,強制的に「これ」と「あれ」を繋げていくということに近いものなのである.CPU が要求する厳格な手順に則って,アイデアを実現するための記述を行っていくこと.それは,CPU に半ばとりつかれた形で要素を繋げていき,一つの世界を構成することを意味するのではないだろうか.
私たちに取りつき,一つのアイデアを実現させるために,厳格な手順を実行させる力をもつものを,アンガス・フレッチャーは「デーモン」と呼ぶ.そして,このデーモンの力が,アレゴリーを生み出すアレゴリカル・エージェントの主な性質だとしている.3-39) フレッチャーは現実生活において,私たちが,もしアレゴリカルな人物に出会ったら,次のように描写するだろうとしている.
彼は唯一つの考えにとりつかれていると言うだろう,もしくは,完全に一つのことしか頭にないと言うかもしれない,また,変えることを決して許すことをしない絶対的に厳格な習慣によって彼の生活は形成されていると言うかもしれない.彼は,まるで何かしらの隠れた,秘密の力に駆りたてられているようだ.また,異なる角度から彼を見るならば,彼は自分自身の運命をコントロールしているのではなく,何か別の力,彼の自我の外にある何かによって支配されているみたいだと.3-40)
フレッチャーの考えに従うならば,CPU の強制の中でプログラムを記述しているヒトは,いわば CPU というデーモンに取りつかれたアレゴリカル・エージェントとなっているといえる.ここから,プログラムの記述から生じるものは,アナロジーというよりも,アレゴリーに近いものだと考えられる.
ここまでの考察をまとめたい.まず,ライプニッツの言葉から,プログラムとアイコンの関係には,アナロジーが成立していると仮定した.次に,アンデルセンの考察から,プログラムが二つのものごと自由に結びつけることができることを示した.そして,自由な結びつけが,CPU によって強制された記述によって成立することから,フレッチャーのアレゴリーへと至った.ここで,アナロジーとアレゴリーとの関係はどのようなものなのかを考えてみたい.はじめに,アナロジーを賞賛し,アレゴリーを批判するバーバラ・スタフォードを参照する.
スタフォードは,アナロジーを現在では失われてしまった「視覚することでのみ思考するような直観的方法をもう一度蘇らせる」3-41) ために必要な概念だとしている.それは,スタフォードが,繋げる<方法>としてアナロジーを考えているからである.3-42) このように,アナロジーには賛辞を送るスタフォードであるが,アレゴリーに関しては,次のように厳しく批判している.
アレゴリーは,二つの特徴を分け合う修辞装置全体に属している.それらの装置は差異を見出すことで発動するのであって,隠れた類似を手掛かりに働くのではないし,明瞭さよりも「昏さ」を,曖昧さを計算ずくで追求する.この曖昧語法は反語,謎,謎々といった不透明なフィギュール,即ち口ではあることを言いながら意はそれとはちがっている極端で始末の悪いもの言いと,一番近しい.こんなふうに考えてみると,二つの以上のものが共有するところの特徴に目を向けないで,むしろ共有していないものばかりをあげつらおうとする強化された反アナロジーの一種が即ちアレゴリーなどだと考えると,話は早そうだ.3-43)
スタフォードが書いているように,アレゴリーは「ひとつのことを言いながら,別のことを意味する」3-44) ように機能するものである.しかし,スタフォードによるアレゴリーへの批判とアナロジーへの称賛は,反アナロジーがアレゴリーであるとしているように,この二つの概念が深く関係していることからもたらされている.「アナロジーもアレゴリーも二項対立の構造にかかわり,バイナリーな論理を含むので,両者の区別は今も,昔も容易ではない.深いところでは両者は,関係ということを維持するか破壊するか,同じコインの表と裏なの」3-45) だと,スタフォードは指摘する.
次に,アレゴリーを再評価するフレッチャーの考えをみてみたい.フレッチャーは,現代のアレゴリーと考えられるとするシュルリアリスト絵画とアレゴリー文学を比較し,そこには共に日常生活とは一致しないアレゴリカル・イメージの視覚的明瞭さを見ることができるとしている.3-46) さらに,アレゴリカル・イメージについて,次のように書いている.
アレゴリカルな世界は,いわば,変わることのないサイズと形によるモザイクのパネル上に勢揃いした独自の「本当の」オブジェクトを,私たちに与えてくれる.アレゴリーは,おそらく,独自の「リアリティ」を持っている.しかし,それは,間違いなく,物理的世界の私たちの知覚に作用する種類のものではない.多くのアレゴリカル・イメージは,不合理で恣意的なように考えられることが多いが,これらのアイデアの関係は,強固な論理的支配を受けているものであり,その主題的内容と理想的に一致している.3-47)
フレッチャーは,アレゴリーは独自の世界を作り出すもの考える.この独自の世界は,現実とのつながりがなくなっているものである.対して,スタフォードは, アレゴリーを反アナロジーと呼び, アナロジーは関係を維持し,アレゴリーは関係を破壊するものだとして,それらは表裏一体のものだと考える.ここから考えることができるのは,スタフォードが批判するアレゴリーもまた,アナロジーとは異なる仕方で,ものごとを繋げていく技術なのではないかということである.つまり,アナロジーでは,ヒトが基準となって世界の要素を結びつけていくのに対して,アレゴリーでは,ヒトとは別の力が働き,ヒトが基準の関係は破壊されるが,そこから新たな関係が構築され独自の世界が立ち上がるということである.
スタフォードは,アナロジーがディスプレイ上のアイコンという形式でコンピュータに導入され,私たちに「アナロジーの連繋力」3-48)を示し,新たな視覚的思考を促すとしている.確かに,ディスプレイ上のアイコンによって,私たちはコンピュータに対して新しい操作方法を身につけたことは事実である.しかし,スタフォードは,この絵画的記号を生み出すプログラムを忘れてしまっている.アイコンが表示されているディスプレイの裏側には,プログラムと CPU が存在していることを忘れてはならない.プログラムという言語的記号を記述する際に,ヒトは CPU に半ばとりつかれた形で,関係を記述していく.ここで記述される関係は,私たちから見れば,対象を「分離」しているようにみえる.だが,それは,CPU というもうひとつの力によって新たなに結びつけられた関係であり,独自のリアリティを生み出すとフレッチャーが指摘するもの,アレゴリーと考えることができる.
つまり,コンピュータ・ディスプレイ上のアイコンは,アナロジー的側面とアレゴリー的側面をもつといえる.アイコンは,ヒトとの関係では,アナロジー的側面を示し,プログラムとの関係においては,アレゴリー的側面を示すのである.
次に,プログラムが創造するアレゴリーが,なぜ,アイコンという絵画的記号を表示するのかを考察していく.フレッチャーは,アレゴリーについて,次のように書く.
この(アレゴリーの)モードによるなら,字義通りの意味ひとつだけということはありえず,およそある陳述が有効である場合には,それはもうひとつ超越的な意味を,即ち字義通りのレヴェルの向うにもうひとつ象徴的な剰余の部分をも孕まねばならいのだというふうに考えられている.ほとんどのアレゴリーは宇宙-秩序のイメージなのであり,その固定し,ヒエラルキー的で無時間的な性格は,時間に依拠する分析にそうした宇宙-秩序がさらされる時にはいつも,覿面に問題的なものと化す.3-49)
このフレッチャーの指摘から,独自のリアリティを形成するアレゴリーの力を理解することができる,つまり,アレゴリーとは,言語的記号が字義通りの意味を越えて,外部に存在している論理が要求する厳格な手順に従うことで,「象徴的な剰余」を生み出し,それが絵画的記号を表示するための無時間的な平面を形成し,絵画的記号を引き寄せてしまう力だといえる. 
線形的なプログラミング言語は,その構造が,外部の論理システムである CPU と一致するよう厳密に定義された言語であるから,字義以外の可能性はないものであった.それに対して,スモールトークが提案した,オブジェクト指向という情報処理形式は,CPU の情報処理を隠蔽する機構をもつことで,CPU とは異なる意味体系をつくり出す.それは逐次的な情報処理が示す字義通りの意味に,体系的に註釈をつけていく作業なのである.それは,アレゴリーが担ってきた働きそのものである.なぜなら,アレゴリーは最も古くは「言語の隠蔽する作用」を示し,古来から「連繋し合うメタファーの連続体」として機能してきたとされるからである.3-50) それゆえに,オブジェクト指向のプログラムは,絵画的記号を引き寄せ,表示すると考えられる.
つまり,字義を隠蔽し「連繋し合うメタファーの連続体」を形成することによって,オブジェクト指向のプログラムはアレゴリーを創造するようになる.そして,厳格な手順を実行していくことで,言語的記号に象徴的な剰余の部分が生じ,無時間的な平面を形成し,絵画的記号を引き寄せる.この引き寄せられた絵画的記号が,アイコンとなって,ディスプレイに表示されるのである

3-36)
3-37)
3-38)
3-39)
3-40)
Ibid., pp.40-41
3-41)
3-42)
同上書,p.62
3-43)
同上書,p.64
3-44)
Fletcher, (1964), p.2
3-45)
スタフォード (2006),p.78
3-46)
Fletcher, (2006), p.102
3-47)
Ibid., pp.104-105
3-48)
スタフォード (2006),p.182
3-49)
3-50)
フレッチャー (1987),pp. 12-13

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