「anima: Flip, Flap Animation」のメモ

物理運動を仮現運動として知覚してしまうのではないか?
映像の解像度,極小の光の操作可能性とそれを見ることの可能性.
「見る」だけに徹しても,多くの驚きがある.
それは,人の眼がだまされやすいからだろうか.
これまでも延々とだまされてきたのに.さらにだまされていくのであろうか.
anima,生命を吹き込むこと.
この意味をアニメーションは考えなければならないと,早川さん
早川さんの作品は,きれいだった.
圧倒的に描き込まれていて,その密度とそれを可能にする技術.
インタラクティブなものではなく,見ることに徹することを考えさせられた.
インタラクティブなものを経由した「見る」ことを考える.
映像を前にして,デバイスがあって,それに触れる際の筋肉の緊張.
そのデバイスが馴染みのものであった場合,
私たちはもうその筋肉の緊張に慣れている.
とくに何も感じなくなってしまっている.
また,センサーで,私たちの動きを捉えて映像に反映させることは,
私たちの身体に何も影響は与えていない,
ただ歩いているいたり,止まったりするだけ.
そのときに,映像が変化したとなっていも,ああそうかというだけになっている.
なぜか,慣れてしまったから.
映像は,私たちによって変化することに慣れてしまった.
そこには,もう anima は起こらないかもしれない.
映像と関係する際に,デバイスを操作する身体に適度の緊張をもたらすこと.
この筋肉の緊張が,映像に anima を吹き込むのかもしれない.
それは,たとえ,見るだけであっても起こる.
私たちの眼はたえず動いているのだから.
動きながら,「ない中にある」を見ること.
見ることの基本とアニメーションはとても親和性がある.
アニメーションも「ない中にある」を見ること.
この関係をどのように作っていくかがとても大切なんではないか.
そして,映像に囲まれた私たちは,
物理的運動を仮現運動に変換して見てしまうような感覚を身につけてしまっているのではないか?
物理的運動と仮現運動との境界があいまいになっていっていること.
だから,見るだけで身体が緊張する.
映画を最初に観た人たちが,そこに映る汽車に驚き逃げた際の身体の緊張に,私たちは回帰しているのではないか?
もう一度,「見る」ことに徹して考えてみる必要がある.
仮現運動を見る中に,物理的運動を感じてしまうとすれば,
それは古くからの見ることが触れることを新たな次元で実践していることになる.
そういったことが,映画とは異なる高解像度の映像を探求しているところに現れはじめている.
PS3 もこの流れなのかもしれない.Wii はその逆.
http://media.nuas.ac.jp/anima/

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