メモ:ピクセル ループ フラッシュ
発表タイトル GIFの質感:「ポスト・インターネット」から考えるメディアとしての画像形式
概要 インターネットが当たり前になった現在,オンライン/オフラインを特に意識することなくこの間を自由に行き来して作品を制作する作家が多く現れてきている.「ポスト・インターネット」と呼ばれるこのような状況のなかで,画像形式のひとつであるGIFが問題となっている.本発表ではGIFを巡る言説を整理し,その意味を問いたい.そして,画像形式が「メディア」となりうるのかを考えたい.
と言うような発表を,今年の映像学会でしようと思っています. それで,ちょっと関連するかなというテキストを少し読んでみました.
はじめに読んだのは.Pixel, Graham Harwood in Software Studies: A Lexicon です.これは「ピクセル」に関する解説なのですが,世界をピクセル化するときには,世界を区分けして,そこを評価して,それをソートすることが起こり,それはデータとアルゴリズムとのあいだで生じる.そして,ピクセル化の究極の目標は目の前のものを,そっくりそのまま再現することでもあるとも書いてあります.
となると,JPEGとGIFといった画像フォーマット自体がアルゴリズムであるから,ピクセルにいたるまでに,フォーマットにおける「価値」が生じている.どちらも究極的な目標である,世界の再現を目指しているとしても,そこにはアルゴリズムのちがいによって,異なる価値が生じている.ポスト・インターネットという言葉で語れる作家たちは,そのちがいを感じて,表現へと持ち込むことができるということなのかもしれない.
次に,レフ・マノヴィッチの The Language of New Media のなかのひとつの節 new temporality: the Loop as a Nrrative Engineを読んだ.これはGIFアニメーションのループを考えるめ.マノヴィッチのループは,QuickTimeのことなのですが,ヒントになるかなと思って読んだわけです.マノヴィッチは,メディアの初期の頃には必ず「ループ」という形式が出てきていることに注目しています.それらは主に記憶容量の問題で,ひとつの作品が短いので,ループにせざる得なかったということです.マノヴィッチは「ループ」を物語を語るためのあたらしいエンジンだと考えているわけですが,これをGIFに当てはめることができるのだろうか,というのが私の疑問です.GIFアニメーションには物語はないような気がします.そして,ループに縛られないほどに自由な表現ができるようなったネットで,なぜ「ループ」という表現形式をとるのか.あるいは「ループ」云々ではなく,ただただGIFアニメーションを選ぶのか(その結果として「ループ」になっている).
最後にまたマノヴィッチの「フラッシュ・ジェネレーション(doc形式のテキストがダウンロードされます)」を読んだ.マノヴィッチの「フラッシュ」という特定のソフトウェアを論じるようで,実はそのまわりのひとつの「ジェネレーション」を扱うという手法は,GIFという画像形式を扱う際にもとても有益だと思われます.それは,GIFという画像フォーマットを論じながら,そこに「質感」を見出してしまう世代論というか,そのような感覚論にしてしまえばいいのかもしれない,ということです.それ以外にも,「フラッシュvsGIF」ととりあえず図式してしまうことが,そのまま「ハッキングvsデフォルト」につながるかもしれないなど,いろいろと得るところの多いテキストでした.