次の学会発表のためのメモ(11):コンピュータによってモニタリングされる行為
発表のためのアウトラインをツイートしていてら,contractio さんから質問とコメントをいただきました.その中で,〈ヒト/コンピュータ〉との対比は,〈行為の理解可能性/行為の理解可能性を度外視した観察可能性〉とが対比されているのではないか,というのがありました.これに納得してしまうと〈コンピュータ〉とは関係なく,今回の発表(というか私の研究全体)は成り立ってしまうという,私にとっては嬉しくない状況になるのです.そして,さらに厄介なことに,私は〈行為の理解可能性/行為の理解可能性を度外視した観察可能性〉という言葉にとても深く納得してしまっているのです.さて,ここからどう考えるか.「映像」ということを軸にして,どうにか〈コンピュータ〉が再び議論に登場できるように考えなければ….
鑑賞者はエキソニモ《断末魔ウス》,dividual《タイプトレース》を見ているとき,何を見ているのか.破壊されるマウスの映像とディスプレイを揺れ動くカーソル.一度自分が打った文字列が,文字の大きさがそれぞれ違う形で再生されていく映像.記録映像とライブ映像とのあいだの映像.
カーソルと大きくなる文字
《断末魔ウス》でマウスが破壊されていく映像は,記録映像である.その記録映像にはマウスが破壊されていく様子は写っているが,カーソルは写っていない.《タイプトレース》では,ユーザが打った文字列が再生されるのだが,文字の大きさが変化している.この文字の大きさは記録されたものではない.
カメラあり
《断末魔ウス》でマウスが破壊されていく様子は,ビデオカメラが記録している.レンズの前に記録される対象,マウスがある.しかし,そこにカーソルはない.マウスからのびるコードがカーソルに繋がっているが,コードはレンズの収める領域の外へとのびている.カーソルはレンズの前にない対象である.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13789078370
カメラなし
《タイプトレース》では,コンピュータがタイピングというヒトの行為を,直に記録していく.紙に直に刻まれる筆跡のようにタイピングを記録していく.「痕跡」の記録という意味では,それはカメラでの記録と同じもの.刻まれた痕跡は変化しない.記録された変化しない対象が,画面上で変化すること.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13789529146
「かつてそこにあった」ではない
《断末魔ウス》のカーソルと《タイプトレース》の文字の大きさの変化は,「かつてそこにあった」という意味で記録されたものではない.それらは「かつてそこになかった」にも関わらず,ディスプレイに映し出されている.なぜなら,それは「かつてそこにあった」ものやことと密接に関係しているから.
ライフログ
人生をデジタル化して記録していくライフログ.ライフログは「かつてそこにあった」を記録していくが,それは写真のようにではない.私たちが見ること・感じることができない位置情報や時間情報をコンピュータを介して記録していくことである.それらの情報から「自分」を再構成することが可能になる.
モノとしての死と死なない情報
「機能を失うことでモノとしての死と,再現可能であることで「死なない」情報との対比であり,モノとデータ,記録映像とライブ映像,映像と PC 環境の境界線を越える挑戦である」エキソニモ.ここにはライフログに関わる対比のすべてが入っている.《断末魔ウス》はひとつのライフログなのだ.
ヒトの観察範囲とコンピュータの観察範囲
ゴードン・ベルはライフログのキラーアプリがスクリーンセイバーだと言う.これは写真の延長である.ヒトが観察できる範囲の対象を記録し,あとから眺める.キーボードとマウスの動きをもとに,コンピュータの使用時間を可視化すること.これはヒトではなくコンピュータの観察範囲である.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13790268396
生態履歴
「高速に,大量に変換される代わりにこれらのデジタル形式で生成される言葉には,そのcurriculum vitae(生態履歴)が欠落している」ドミニク・チェン.ライフログはすべてを記録しようとするが,生態履歴が欠落する.生態履歴=「かつてそこにあった」をどのように情報に付与するか.
生と死の「あいだ」
ゴードン・ベルは,デジタル化されたライフログによって「不死」がもたらされるとしている.デジタルによる電子記憶を作り,それをもとにアバターを生みだす.生態履歴を欠いたデータの集積からアバターを作り出すことは可能なのか.ここでも問題はヒトとコンピュータの観察範囲の「あいだ」にある.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13790636247
あるけどなくて,ないけどある
マウスに付随するカーソルが示す位置情報,タイピングに付随する時間情報はコンピュータにとっては確実にあるが,ヒトにとってはないかあるのかわからない.その情報に生態履歴を重ね合わせることで,ヒトにとってはその「ある|なし」が不確かな情報を「ある」ものにする.→モノとデータ,記録映像とライブ映像,映像と PC 環境の境界線を越える挑戦.
データを「ある」ことにする世界
ヒトとコンピュータの互いの観察範囲を重ねる合わせるためには,コンピュータにとっては当たり前に存在しているデータを,ヒトにとっても「ある」ことにする必要がある.データを「ある」こととして体験したヒトは,そこに勝手に意味を読み込む.コンピュータが意味を示していると,ヒトは思い込む.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13791042897
3つの世界
ヒトはモノであると同時に意味を生み出す存在である.そのヒトがものごとを数量化して捉える考えを押し進めた結果として生み出したコンピュータ.コンピュータはモノであると同時にデータを生み出す存在である.ヒトとコンピュータという2つの存在が交錯することで新しい世界の関係性が生じる.
ヒト|人工物|実世界
私たちは「人間の世界」「人工物の世界」「実世界」という3つの世界の相互作用の中に生きている.コンピュータは「人工物の世界」を作り出し,ヒトとのコミュニケーションの中で「実世界」をも再構成していく.ライフログはヒトの生態履歴をコンピュータのデータの流れにのせて「実世界」を変える.
「ものをなくす」ことがない世界
すべての「もの」の位置情報がわかれば「ものをなくす」はなくなると暦本純一は指摘する.「ものをなくす」とは,ヒトの観察範囲からモノが外れることを意味していた.そこにコンピュータの観察範囲が重なりあることで,ヒトはモノを常に観察できるようになる.これは,ヒトにとって新しい体験・世界.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13791517470
主観|間主観|客観
近代哲学が前提としてきた主観的なものと客観的なものの二元論が放棄されつつある.主観的,間主観的,客観的という3種類の知識の相互作用が考え始められている.この相互作用は,コンピュータというモノであると同時にデータを生み出す存在が構築しつつある「3つの世界」を捉えるために有効なのだ.
「3つの世界」の相互作用を理解する
ヒトは対象をモノとして見る.コンピュータは同じ対象をデータとして見る.コンピュータが対象を入出力する方法はヒトが仕組んだもの.それゆえに,私たちはコンピュータがヒトとは全く異なる仕組みで対象を「見て」いても理解可能である.この理解が,ヒトが対象をデータとして見る可能性を開く.
ビット入出力界面
すべてのヒトがプログラミングできるようになれば,ヒトはコンピュータがするように対象をデータとして捉えられるようになるのだろう.今はその段階まで至っていないから,映像を介して,コンピュータのモノの見方をヒトの見方に合わせている.これはヒトが対象をデータとして見始めた段階でもある.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13792342578
間主[種]観的な映像
3つの世界の相互作用の中で主観的でも客観的でもない映像が意識される.各個体が「かつてそこにあった」ものごとからあるルールに基づいて要素を抽出する.その要素から「かつてそこになかった」にも関わらず,各個体が共有可能な最大公約数的なものを作り出す.これが「間主観的な映像」である.
個のあいだの間主観的映像
私が世界をこう見るのなら,あの人も世界をこう見ているはず.この「見ているはず」の最大公約数的映像.これを機械によって,できるだけヒトの介入を無くす方法で表したものが,写真・映画.写真・映画がヒトの介入,つまり主観を排することで切り開いた新しい共有世界と,そこから生じる客観的世界.
種のあいだの間主観的映像
ヒトが世界をこう見るのなら,コンピュータも世界をこう見ているはず.コンピュータが世界をこう見るのなら,ヒトも世界をこう見ているはず.つまり,コンピュータが世界を見るように,ヒトが世界を見てもいいはず.ヒトとコンピュータという異なる「種」の最大公約数的映像による共有世界と客観的世界.
生態履歴とデータとを重ね合わせた間主[種]観的映像
ヒトの生態履歴とコンピュータが生成するデータを重ね合わせる.ヒトの生態履歴をコンピュータが生成するデータの流れの中に入れ込むこと.ヒトが作り出しものでありながら,ヒトとは異なる形式で作動するコンピュータに自らの生態履歴を流し込むことで生じる共有世界と客観的世界を示す間主[種]観的な映像.
コンピュータによるモニタリングの可能性
自らの行為のことを,ヒトは観察を経ずに知っている.しかし,固有の感覚をもたない内蔵等のことは観察しないとわからない.このわからない行為を,コンピュータが観察する.コンピュータが「行為している身体」をデータとして捉え,映像にする.ここに,ヒトが身体をデータとして見る可能性が生じる.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13794200975
「行為における身体」と「行為している身体」
「行為が生起する場所が,そしてその場所のみが,行為における身体である」と柏端達也は書く.ヒトの観察によらないモニタリングでわかる「行為における身体」.対して,ヒトのモニタリングから外れるが,コンピュータによってモニタリングされる行為の領域を「行為している身体」と考える.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13795590527
ヒト|データ|コンピュータ
ヒトとコンピュータとは異なる種である.だが,この2つの種は,互いの中間にある数とそれから構成される映像によってコミュニケーションを行っている.ヒトは正確さを求めて数を扱い,その成果としてコンピュータを生み出した.コンピュータはすべてを数に変えることでデータ化し,それを映像化する.
数の客観性と間主[種]観的な映像
数はヒトとコンピュータとの中間にあるがゆえに客観的である.数は表現をヒトから独立させる.そこにあるは美意識でも論理でもなく,ただ記録された数があるだけである.ライフログのおいて,コンピュータはヒトを数に置き換えていく.ヒトがデータ化される.データ化されたヒトが映像に再構成される.
《断末魔ウス》における間主[種]観的な映像
《断末魔ウス》が示す間主[種]観的な映像は,マウスとカーソルという現時点で最もヒトに近いコンピュータのインターフェイスを対象にすることで,ヒトを含めたモノがデータの流れの中に存在しはじめていることを示す.そこには,データ化されたヒトがカーソルという矢印の形で映し出されているのだ.
《タイプトレース》における間主[種]観的な映像
コンピュータがデータ化されたヒトの一度きりの生態履歴から「かつてそこになかった」データを抽出し組み合わせることで,行為観察のバリエーションを複数作り出していることを,《タイプトレース》の間主[種]観的な映像は示す.ヒトはコンピュータを介して,ひとつの生態履歴が行為観察のバリエーションを複数示す世界に生きているのだ.
ーー
何を見ているのか? 鑑賞者はエキソニモ《断末魔ウス》,dividual《タイプトレース》を見ているとき,何を見ているのか.破壊されるマウスの映像とディスプレイを揺れ動くカーソル.一度自分が打った文字列が,文字の大きさがそれぞれ違う形で再生されていく映像.記録映像とライブ映像とのあいだの映像.
カーソルと大きくなる文字
《断末魔ウス》でマウスが破壊されていく映像は,記録映像である.その記録映像にはマウスが破壊されていく様子は写っているが,カーソルは写っていない.《タイプトレース》では,ユーザが打った文字列が再生されるのだが,文字の大きさが変化している.この文字の大きさは記録されたものではない.
カメラあり
《断末魔ウス》でマウスが破壊されていく様子は,ビデオカメラが記録している.レンズの前に記録される対象,マウスがある.しかし,そこにカーソルはない.マウスからのびるコードがカーソルに繋がっているが,コードはレンズの収める領域の外へとのびている.カーソルはレンズの前にない対象である.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13789078370
カメラなし
《タイプトレース》では,コンピュータがタイピングというヒトの行為を,直に記録していく.紙に直に刻まれる筆跡のようにタイピングを記録していく.「痕跡」の記録という意味では,それはカメラでの記録と同じもの.刻まれた痕跡は変化しない.記録された変化しない対象が,画面上で変化すること.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13789529146
「かつてそこにあった」ではない
《断末魔ウス》のカーソルと《タイプトレース》の文字の大きさの変化は,「かつてそこにあった」という意味で記録されたものではない.それらは「かつてそこになかった」にも関わらず,ディスプレイに映し出されている.なぜなら,それは「かつてそこにあった」ものやことと密接に関係しているから.
ライフログ
人生をデジタル化して記録していくライフログ.ライフログは「かつてそこにあった」を記録していくが,それは写真のようにではない.私たちが見ること・感じることができない位置情報や時間情報をコンピュータを介して記録していくことである.それらの情報から「自分」を再構成することが可能になる.
モノとしての死と死なない情報
「機能を失うことでモノとしての死と,再現可能であることで「死なない」情報との対比であり,モノとデータ,記録映像とライブ映像,映像と PC 環境の境界線を越える挑戦である」エキソニモ.ここにはライフログに関わる対比のすべてが入っている.《断末魔ウス》はひとつのライフログなのだ.
ヒトの観察範囲とコンピュータの観察範囲
ゴードン・ベルはライフログのキラーアプリがスクリーンセイバーだと言う.これは写真の延長である.ヒトが観察できる範囲の対象を記録し,あとから眺める.キーボードとマウスの動きをもとに,コンピュータの使用時間を可視化すること.これはヒトではなくコンピュータの観察範囲である.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13790268396
生態履歴
「高速に,大量に変換される代わりにこれらのデジタル形式で生成される言葉には,そのcurriculum vitae(生態履歴)が欠落している」ドミニク・チェン.ライフログはすべてを記録しようとするが,生態履歴が欠落する.生態履歴=「かつてそこにあった」をどのように情報に付与するか.
生と死の「あいだ」
ゴードン・ベルは,デジタル化されたライフログによって「不死」がもたらされるとしている.デジタルによる電子記憶を作り,それをもとにアバターを生みだす.生態履歴を欠いたデータの集積からアバターを作り出すことは可能なのか.ここでも問題はヒトとコンピュータの観察範囲の「あいだ」にある.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13790636247
あるけどなくて,ないけどある
マウスに付随するカーソルが示す位置情報,タイピングに付随する時間情報はコンピュータにとっては確実にあるが,ヒトにとってはないかあるのかわからない.その情報に生態履歴を重ね合わせることで,ヒトにとってはその「ある|なし」が不確かな情報を「ある」ものにする.→モノとデータ,記録映像とライブ映像,映像と PC 環境の境界線を越える挑戦.
データを「ある」ことにする世界
ヒトとコンピュータの互いの観察範囲を重ねる合わせるためには,コンピュータにとっては当たり前に存在しているデータを,ヒトにとっても「ある」ことにする必要がある.データを「ある」こととして体験したヒトは,そこに勝手に意味を読み込む.コンピュータが意味を示していると,ヒトは思い込む.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13791042897
3つの世界
ヒトはモノであると同時に意味を生み出す存在である.そのヒトがものごとを数量化して捉える考えを押し進めた結果として生み出したコンピュータ.コンピュータはモノであると同時にデータを生み出す存在である.ヒトとコンピュータという2つの存在が交錯することで新しい世界の関係性が生じる.
ヒト|人工物|実世界
私たちは「人間の世界」「人工物の世界」「実世界」という3つの世界の相互作用の中に生きている.コンピュータは「人工物の世界」を作り出し,ヒトとのコミュニケーションの中で「実世界」をも再構成していく.ライフログはヒトの生態履歴をコンピュータのデータの流れにのせて「実世界」を変える.
「ものをなくす」ことがない世界
すべての「もの」の位置情報がわかれば「ものをなくす」はなくなると暦本純一は指摘する.「ものをなくす」とは,ヒトの観察範囲からモノが外れることを意味していた.そこにコンピュータの観察範囲が重なりあることで,ヒトはモノを常に観察できるようになる.これは,ヒトにとって新しい体験・世界.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13791517470
主観|間主観|客観
近代哲学が前提としてきた主観的なものと客観的なものの二元論が放棄されつつある.主観的,間主観的,客観的という3種類の知識の相互作用が考え始められている.この相互作用は,コンピュータというモノであると同時にデータを生み出す存在が構築しつつある「3つの世界」を捉えるために有効なのだ.
「3つの世界」の相互作用を理解する
ヒトは対象をモノとして見る.コンピュータは同じ対象をデータとして見る.コンピュータが対象を入出力する方法はヒトが仕組んだもの.それゆえに,私たちはコンピュータがヒトとは全く異なる仕組みで対象を「見て」いても理解可能である.この理解が,ヒトが対象をデータとして見る可能性を開く.
ビット入出力界面
すべてのヒトがプログラミングできるようになれば,ヒトはコンピュータがするように対象をデータとして捉えられるようになるのだろう.今はその段階まで至っていないから,映像を介して,コンピュータのモノの見方をヒトの見方に合わせている.これはヒトが対象をデータとして見始めた段階でもある.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13792342578
間主[種]観的な映像
3つの世界の相互作用の中で主観的でも客観的でもない映像が意識される.各個体が「かつてそこにあった」ものごとからあるルールに基づいて要素を抽出する.その要素から「かつてそこになかった」にも関わらず,各個体が共有可能な最大公約数的なものを作り出す.これが「間主観的な映像」である.
個のあいだの間主観的映像
私が世界をこう見るのなら,あの人も世界をこう見ているはず.この「見ているはず」の最大公約数的映像.これを機械によって,できるだけヒトの介入を無くす方法で表したものが,写真・映画.写真・映画がヒトの介入,つまり主観を排することで切り開いた新しい共有世界と,そこから生じる客観的世界.
種のあいだの間主観的映像
ヒトが世界をこう見るのなら,コンピュータも世界をこう見ているはず.コンピュータが世界をこう見るのなら,ヒトも世界をこう見ているはず.つまり,コンピュータが世界を見るように,ヒトが世界を見てもいいはず.ヒトとコンピュータという異なる「種」の最大公約数的映像による共有世界と客観的世界.
生態履歴とデータとを重ね合わせた間主[種]観的映像
ヒトの生態履歴とコンピュータが生成するデータを重ね合わせる.ヒトの生態履歴をコンピュータが生成するデータの流れの中に入れ込むこと.ヒトが作り出しものでありながら,ヒトとは異なる形式で作動するコンピュータに自らの生態履歴を流し込むことで生じる共有世界と客観的世界を示す間主[種]観的な映像.
コンピュータによるモニタリングの可能性
自らの行為のことを,ヒトは観察を経ずに知っている.しかし,固有の感覚をもたない内蔵等のことは観察しないとわからない.このわからない行為を,コンピュータが観察する.コンピュータが「行為している身体」をデータとして捉え,映像にする.ここに,ヒトが身体をデータとして見る可能性が生じる.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13794200975
「行為における身体」と「行為している身体」
「行為が生起する場所が,そしてその場所のみが,行為における身体である」と柏端達也は書く.ヒトの観察によらないモニタリングでわかる「行為における身体」.対して,ヒトのモニタリングから外れるが,コンピュータによってモニタリングされる行為の領域を「行為している身体」と考える.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13795590527
ヒト|データ|コンピュータ
ヒトとコンピュータとは異なる種である.だが,この2つの種は,互いの中間にある数とそれから構成される映像によってコミュニケーションを行っている.ヒトは正確さを求めて数を扱い,その成果としてコンピュータを生み出した.コンピュータはすべてを数に変えることでデータ化し,それを映像化する.
数の客観性と間主[種]観的な映像
数はヒトとコンピュータとの中間にあるがゆえに客観的である.数は表現をヒトから独立させる.そこにあるは美意識でも論理でもなく,ただ記録された数があるだけである.ライフログのおいて,コンピュータはヒトを数に置き換えていく.ヒトがデータ化される.データ化されたヒトが映像に再構成される.
《断末魔ウス》における間主[種]観的な映像
《断末魔ウス》が示す間主[種]観的な映像は,マウスとカーソルという現時点で最もヒトに近いコンピュータのインターフェイスを対象にすることで,ヒトを含めたモノがデータの流れの中に存在しはじめていることを示す.そこには,データ化されたヒトがカーソルという矢印の形で映し出されているのだ.
《タイプトレース》における間主[種]観的な映像
コンピュータがデータ化されたヒトの一度きりの生態履歴から「かつてそこになかった」データを抽出し組み合わせることで,行為観察のバリエーションを複数作り出していることを,《タイプトレース》の間主[種]観的な映像は示す.ヒトはコンピュータを介して,ひとつの生態履歴が行為観察のバリエーションを複数示す世界に生きているのだ.