次の学会発表のためのメモ(5):入出力と引用

次の学会発表のためのメモ(5)
実世界からヒトとコンピュータに入力があり,ヒトは映像(心的イメージ)へと直接的に出力する.または,言語に一度出力し,それを映像に出力し直す.コンピュータは一度データに出力し,その後映像に出力し直す.それらの映像が再び,ヒトとコンピュータとに入力される.

ヒトとコンピュータとが接触する部分:インターフェイス(間主観的な部分)と,データ及びデータで満たされたネットワーク(客観的な部分)とを分けて考えること.


物理的対象の重さについて考えたり語ったりするときに,その対象がもつ重さなどという存在者を想定する必要はない.同様に,人々の信念について考えたり語ったりするとき,信念という存在者がそこにあると考える必要はない.「信念の対象」や,心に現前する何か,脳の中にある何かといった役目を演じる対象を新たに発明する必要もない.そのような発明は不要である.なぜなら,心の状態を特定する手助けとしてわれわれが引き合いに出す存在者は,心理的または認識論的な役割を果たす必要がそもそもないからである.それはちょうど,数が物理的役割を果たさないのと同じである.その結果,われわれが思考主体の思考を記録するために用いる存在者の当の思考主体が知らないからといって,そこから,自分の考えていることをまさにその思考主体が知らないという結論を導き出す理由はないことになる.(p.106)
第4論文 心に現前するものは何か:主観的,間主観的,客観的 ドナルド・デイヴィドソン
ここから私は最後の論点へと導かれる.私は物理科学における測定と,他人の言葉や思考への内容の割り当てとを類比することを提案したが,この類比は本質的な点で不完全である.ふつうの測定の場合,われわれは関心を引く事実を記録するために数を使う.命題的態度の場合には,われわれは文や発話を使う.しかし次のちがいがある.われわれはおたがいに数のもつ性質を特定し合うことができる.数は,それが適用される対象と同様,いわばわれわれと他人の中間にある.そのことが,数が客観的だとか,対象だとかということの意味である.文の場合は,事情はそんなふうではありえない.あなたと私が,文を使って他人を解釈するのに先立って,その文の解釈に関して合意にいたることはありえない.なぜなら,そのような合意にいたる過程には,われわれが着手しようと望んでいたまさにその種類の解釈が含まれているからである.解釈に関する共通尺度を求めても意味をなさない.なぜなら相互的な解釈こそ,われわれのもつ唯一の尺度を提供するものだからである.(p.141)
第5論文 不確定性の主張と反実在論:主観的,間主観的,客観的 ドナルド・デイヴィドソン
世界を知覚する上で忘れてはならないことは,デジタル・テクノロジーが,私たちの世界との間をさまざまな「フィルター」のようなものですでに媒介してしまっていることである.光学に代わってX線や赤外線など,電波を介して観測された数値データを人間に理解可能なものへと変換するプロセスは,観測システムにおけるデータの扱いや変換方法の任意性を物語る.観測においてはその他にもさまざまなフィルター──観測方法,観測装置やそのメカニズム,装置の正確さ,データの分析,可視化,表記方法など──が存在する.あらゆる計測や分析,視覚化の方法は,多様なフィルターの一部でしかない.(p.10)
「ミッションG:地球を知覚せよ!」展,四方幸子
空間表記法super-eyeを空間操作,設計に使ってみよう.視点を取り巻くものすべての正確な方向や距離が一望でき,それらを詳細にコントロールできる.しかし,視点が移動した途端,すべてが成立しなくなる.空間のある一点からのみ成立するコントロールであるから,当然の経過である.ここで全体の枠組みを拡張する必要に迫られる.それは複数の主観が同時に存在する状態,主観的視点が空間に複数同時存在し,それらはすべてコントロールの基点であると視点群と考える.この視点群をひとつのコントロールの対象・総体として扱う.(p.46)

空から見下ろすトップダウン的なGPSに並べると,スマート・ダスト=塵が空間に多数散布され,それらが空間を計測・観察する.塵が空間を視ている状態.一方は地球外部視点,つまり客観視点であり,一方は内部からの視点,主観視点の集合である.いずれも強力な監視技術で,両者を同時使用することで外部視点と複数の内部視点を得,より空間の総体的把握力,コントロール力が増す.(pp.48-49)
塵の眼・塵の建築,市川創太
記憶の電子的な強化の延長線上には何があるだろうか.実際の脳はストレージのように情報を格納しているのではなく,その場その場で想起情報を再構成していると推測されている.したがって記憶は常に「一人称」的であり,想起する場面がなければ記憶そのものも存在しないといえるかもしれない.一方,電子的記憶にはそのような性質(「制約」といえるかもしれない)はないので,人間の想起メカニズムを離れた電子情報独自の利用可能性が生まれてくる.たとえてみれば,通常の記憶想起が地表を歩いて一人称的に景色を観る行為だとすると,上空から世界を鳥瞰図のように見渡したり,さらには地球全体を外部から眺めたりするような経験に相当するだろう.つまり電子的な記憶のブラウジングは,空間認知における「地図」の発明に相当する可能性を持っている.(p.191)

同様にして,自分の全体像や全記憶をトータルに「観測」することができるようになるかもしれない.時間方向のスケールを自由に調整し,細部から全体までを任意のレベルで自由に観測することができるだろう.そのようにして自己を外部観測者として把握する行為が可能になると,自分の成長・思考の変遷・あるいは自己の老化などに対しても新しい感覚がもたらされるだろう.つまり,自分という存在に関する「世界観」が変化する可能性がある.それは飛行機に乗って,あるいは宇宙から我々の地球を眺めた時に得た世界観の変化に匹敵するものと予測している.(pp.191-192)
サイバネティックアースへ:サイボーグ化する地球とその可能性,暦本純一

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