次の学会発表のためのメモ(12):スクリーン付きの三角測量

考えれば考えるほどわけわからなくなるのは,問題の立て方が間違っていたから.どう収集すればいいのか,もがくしかない.
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間主観的な映像:ヒト|映像|モノ


何を見ているのか?
鑑賞者はエキソニモ《断末魔ウス》,dividual《タイプトレース》を見ているとき,何を見ているのか.破壊されるマウスの映像とディスプレイを揺れ動くカーソル.一度自分が打った文字列が,文字の大きさがそれぞれ違う形で再生されていく映像.記録映像とライブ映像とのあいだの映像.

カーソルと大きくなる文字
《断末魔ウス》でマウスが破壊されていく映像は,記録映像である.その記録映像にはマウスが破壊されていく様子は写っているが,カーソルは写っていない.《タイプトレース》では,ユーザが打った文字列が再生されるのだが,文字の大きさが変化している.この文字の大きさは記録されたものではない.

カメラあり
《断末魔ウス》でマウスが破壊されていく様子は,ビデオカメラが記録している.レンズの前に記録される対象,マウスがある.しかし,そこにカーソルはない.マウスからのびるコードがカーソルに繋がっているが,コードはレンズの収める領域の外へとのびている.カーソルはレンズの前にない対象である.

カメラなし
《タイトレース》では,コンピュータがタイピングというヒトの行為を,直に記録していく.紙に直に刻まれる筆跡のようにタイピングを記録していく.「痕跡」の記録という意味では,それはカメラでの記録と同じもの.刻まれた痕跡は変化しない.記録された変化しない対象が,画面上で変化すること.

「かつてそこにあった」ではない
《断末魔ウス》のカーソルと《タイプトレース》の文字の大きさの変化は,「かつてそこにあった」という意味で記録されたものではない.それらは「かつてそこになかった」にも関わらず,ディスプレイに映し出されている.なぜなら,それは「かつてそこにあった」ものやことと密接に関係しているから.

ライフログ
人生をデジタル化して記録していくライフログ.ライフログは「かつてそこにあった」を記録していくが,それは写真のようにではない.私たちが見ること・感じることができない位置情報や時間情報をコンピュータを介して記録していくことである.それらの情報から「自分」を再構成することが可能になる.

モノとしての死と死なない情報
「機能を失うことでモノとしての死と,再現可能であることで「死なない」情報との対比であり,モノとデータ,記録映像とライブ映像,映像と PC 環境の境界線を越える挑戦である」エキソニモ.ここにはライフログに関わる対比のすべてが入っている.《断末魔ウス》はひとつのライフログなのだ.

ヒトの観察範囲とコンピュータの観察範囲
ゴードン・ベルはライフログのキラーアプリがスクリーンセイバーだと言う.これは写真の延長である.ヒトが観察できる範囲の対象を記録し,あとから眺める.キーボードとマウスの動きをもとに,コンピュータの使用時間を可視化すること.これはヒトではなくコンピュータの観察範囲である.

生態履歴
「高速に,大量に変換される代わりにこれらのデジタル形式で生成される言葉には,そのcurriculum vitae(生態履歴)が欠落している」ドミニク・チェン.ライフログはすべてを記録しようとするが,生態履歴が欠落する.生態履歴=「かつてそこにあった」をどのように情報に付与するか.

生と死の「あいだ」
ゴードン・ベルは,デジタル化されたライフログによって「不死」がもたらされるとしている.デジタルによる電子記憶を作り,それをもとにアバターを生みだす.生態履歴を欠いたデータの集積からアバターを作り出すことは可能なのか.ここでも問題はヒトとコンピュータの観察範囲の「あいだ」にある.

あるけどなくて,ないけどある
マウスに付随するカーソルが示す位置情報,タイピングに付随する時間情報はコンピュータにとっては確実にあるが,ヒトにとってはないかあるのかわからない.その情報に生態履歴を重ね合わせることで,ヒトにとってはその「ある|なし」が不確かな情報を「ある」ものにする.→モノとデータ,記録映像とライブ映像,映像と PC 環境の境界線を越える挑戦.

データを「ある」ことにする世界
ヒトとコンピュータの互いの観察範囲を重ねる合わせるためには,コンピュータにとっては当たり前に存在しているデータを,ヒトにとっても「ある」ことにする必要がある.データを「ある」こととして体験したヒトは,そこに勝手に意味を読み込む.コンピュータが意味を示していると,ヒトは思い込む.

3つの世界
ヒトはモノであると同時に意味を生み出す存在である.そのヒトがものごとを数量化して捉える考えを押し進めた結果として生み出したコンピュータ.コンピュータはモノであると同時にデータを生み出す存在である.ヒトとコンピュータという2つの存在が交錯することで新しい世界の関係性が生じる.

ヒト|人工物|実世界
私たちは「人間の世界」「人工物の世界」「実世界」という3つの世界の相互作用の中に生きている.コンピュータは「人工物の世界」を作り出し,ヒトとのコミュニケーションの中で「実世界」をも再構成していく.ライフログはヒトの生態履歴をコンピュータのデータの流れにのせて「実世界」を変える.

「ものをなくす」ことがない世界
すべての「もの」の位置情報がわかれば「ものをなくす」ことはなくなると暦本純一は指摘する.「ものをなくす」とは,ヒトの観察範囲からモノが外れることを意味していた.そこにコンピュータの観察範囲が重なりあることで,ヒトはモノを常に観察できるようになる.これは,ヒトにとって新しい体験をもたらす世界である.

主観|間主観|客観
近代哲学が前提としてきた主観的なものと客観的なものの二元論が放棄されつつある.主観的,間主観的,客観的という3種類の知識の相互作用が考え始められている.この相互作用は,コンピュータというモノであると同時にデータを生み出す存在が構築しつつある「3つの世界」を捉えるために有効なのだ.

三角測量
三角測量には二つの生物が必要である.それらの二つの生物は一つの対象と相互行為する.そしてそれぞれの生物に物の客観的な在り方という概念を与えるのは,言語によってそれらの生物のあいだに結ばれる基線である.二つの生物が真理の概念を共有しているという事実のみが,それらが信念をもつという主張や,それらが対象に対し公共的世界の中での位置を割り当てられるという主張に,意味を与えるのである.(p.173)

第7論文 合理的動物:主観的,間主観的,客観的 ドナルド・デイヴィドソン

チューリングのテスト
チューリングテストは,いま一度改良されなければならない.対象と質問者の因果的な結びつきに加えて,対象と世界の残りの部分との因果的な結びつきも質問者に観察できるように,対象を表に出さなければならないのである.(チューリングの「イミテーションゲーム」が持っていた,競争としての側面を復元するほうが望ましいと思われるのであれば,対象は,質問者の視点からは人間と区別できないようにしなければならない.)(p.144)

第5論文 チューリングのテスト:合理性の諸問題,ドナルド・デイヴィドソン

間主観的な映像
スクリーン付きの三角測量
コンピュータは俯瞰的な視点や統一的な目的をもたないまま,ヒトの行為を計測しデータをフィードしつづける.このデータが,ヒトにディスプレイ上のピクセルという形で与えられる.ヒトはその映像の中に,データの自律的なふるまいを勝手に見出す.

2つの間主観的な映像
3つの世界の相互作用の中で主観的でも客観的でもない映像が意識される.各個体が「かつてそこにあった」ものごとからあるルールに基づいて要素を抽出する.その要素から「かつてそこになかった」にも関わらず,各個体が共有可能な最大公約数的なものを作り出す.これが「間主観的な映像」である.

個のあいだの間主観的な映像
私が世界をこう見るのなら,あの人も世界をこう見ているはず.この「見ているはず」の最大公約数的映像.これを機械によって,できるだけヒトの介入を無くす方法で表したものが,写真・映画.写真・映画がヒトの介入,つまり主観を排することで切り開いた新しい共有世界と,そこにある客観的世界.

種のあいだの間主観的な映像
ヒトが世界をこう見るのなら,コンピュータも世界をこう見ているはず.コンピュータが世界をこう見るのなら,ヒトも世界をこう見ているはず.つまり,コンピュータが世界を見るように,ヒトが世界を見てもいいはず.ヒトとコンピュータという異なる「種」の最大公約数的映像による共有世界と,そこにある客観的世界.

間主観的な映像が映し出すモノ
《断末魔ウス》が示す間主観的な映像
《断末魔ウス》は,マウスとカーソルという現時点で最もヒトに近いコンピュータのインターフェイスを対象にすることで,ヒトがカーソルという矢印になってデータとして存在していることを示す間主観的な映像なのだ.ヒトはコンピュータを介して,データが作り出す世界に存在している.

《タイプトレース》が示す間主観的な映像
《タイプトレース》は,コンピュータがデータ化されたヒトの一度きりの生態履歴から「かつてそこになかった」データを抽出し組み合わせることで,行為観察のバリエーションを複数作り出していることを示す間主観的な映像なのだ.ヒトはコンピュータを介して,ひとつの生態履歴から複数の行為観察のバリエーションが示される世界に生きている.

「データとしてのヒト」を映し出す間主観的な映像
コンピュータはヒトを位置や時間のデータに置き換えていく.データ化されたヒトが映像に再構成される.これは「データとしてのヒト」というヒトから独立した表象である.「データとしてのヒト」は,ヒトとデータとが直結している「データとして見られるヒト」と異なる.コンピュータがヒトとデータを分離する.よって,「データとしてのヒト」はヒトとは独立した存在になる.ここにヒトが自らを相対化して見る可能性が生じる.

生態履歴とデータを重ね合わせた世界
ヒトの生態履歴とコンピュータが生成するデータを重ね合わせる.ヒトの生態履歴をコンピュータが生成するデータの流れの中に入れ込むこと.ヒトが作り出しものでありながら,ヒトとは異なる形式で作動するコンピュータに自らの生態履歴を流し込むことで生じる間主観的な映像が示す共有世界と,そこにある客観的世界.

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