たとえば,私が机のまえに立ったままで居て,両手でもってそれにのしかかっているという場合,私の手だけが強調されていて,私の身体全体はまるで彗星の尾のように手の背後へと流れて行っている.というのも,私の肩なり腰なりの位置が私にわからないからではない.テーブルのうえに突いた両手のその支えのなかに,私の姿勢の全体位置が言わば読みとられるからである.また,私が立って居て,私のパイプをを手で握りしめているという場合,私の手の位置というものは,私の手の位置が私の前腕とのあいだでとる角度,私の前腕が私の上腕とのあいだでとる角度,私の上腕が私の胴体とのあいだでとる角度,最後に私の胴体が大地とのあいだでとる角度──といったものから次々に推論されて行って決まるものではない.私は自分のパイプがどこにあるかを,一つの絶対知によって知ってしまっているのであり,まさにそれによって,私の手がどこにあるのか,私の身体がどこにあるかも知っているのであって,それはあたかも,沙漠のなかで原始人がそのつど一気に方向を見定めてしまって,別に出発以来辿ってきた道のりや外れて来た角度を思い出したり加算したりする必要なぞないのと相似ている.(p.175) モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』 「一つの絶対知」 マテリアルと身体と間の作用・反作用 As someone who thinks of things from the perspective of creating interactive experiences, I really think that you do need something. from: Q&A: Nintendo’s Shigeru Miyamoto on Mario Zelda, Project Natal and More 宮本さんとメルロ=ポンティを並べてみる. 「一つの絶対知」としてのインタラクティブ経験. そこには,身体が接する何かが必要となる. マテリアルと,マテリアルとしての身体. また, #52 概念を触る指 [Finger touches concepts] 第3章で掲載した角をなぞる図版の延長版であるが,ここでなぞられている角は,点線や括弧など,アクチュアルに決して触る事のできない概念的な要素で構成されている.「概念を触る」という日常で体験できない表...
A Demonstration of the Transition from Ready-to-Hand to Unready-to-Hand Dobromir G. Dotov, Lin Nie, Anthony Chemero を読んでみた.この論文についての解説は, 「コンピューターと自分は一体」:実験で検証 で読めますが引用してみる. Chemero氏の研究成果は,3月9日(米国時間)付でオープンアクセス誌『PLoS ONE』に掲載された.この実験は,ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの基本概念の1つを検証する目的で行なわれた. 人間は,扱い慣れた,正しく機能している道具については特別に意識せず,道具の向こうを「透かし見る」ようにして,目の前の課題に意識を向けるものだ,とハイデッガーは唱えた.それはちょうど,靴ひもを結ぶのにいちいち自分の指を意識しないのと同じ理屈だ.すなわち,道具はわれわれ自身なのだと. この概念,「用具的」[他には「道具的」「手許的(性)」「用存的」など.英語では「ready-to-hand」=手の届くところにあること.ドイツ語では「zuhanden」]と呼ばれ,人工知能や認知科学の研究に影響を及ぼしてきたが,これまでこの概念が直接検証されたことはなかった. ということらしい.検証されたかどうかは別にして,自分の関心のあるところを少し書いてみることにしたい.ハイデガーは道具の例としてハンマーというモノを出しているのだけれど,この論文ではマウスとカーソルとでひとつの「道具」を作って実験している.論文の著者たちは次のように,この「道具」のつながりを書いている. ハイデガーの例とアナロジーを示すと,マウスはハンマーの柄の役割をし,スクリーン上のポインターはハンマーの打撃面と同じような役割をする.[ To make an analogy to Heidegger’s example, here the mouse plays the role of the handle and the on- screen pointer figure plays a role similar to that of the hammer striking face. ] このアナロジーは妥当なんだろうか.マウスがハンマーの柄であることはい...