お仕事:インターネット・リアリティ・マッピング(5)「エキソニモとライダー・リップス(中編)」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 10/29/2014 DMM.make で記事が公開されました! インターネット・リアリティ・マッピング(5)「エキソニモとライダー・リップス(中編)」 今回はわりと長めのエキソニモ論になっています.エキソニモの作品の流れのなかで彼らがIDPW名義で行っている「インターネットネットヤミ市」を位置づけてもいます.こんな感じでエキソニモ論を書いてみたい.もちろん,ライダー・リップスも登場します.結構長いので,お時間のあるときに読んでみてください! リンクを取得 Facebook × Pinterest メール
MASSAGE連載05_ iPadがつくる板状の薄っぺらい空間の幅 ─── 谷口暁彦「思い過ごすものたち《A.》」と「滲み出る板《D》」について 9/11/2016 MASSAGE での連載「モノとディスプレイとの重なり」の第5回「 iPadがつくる板状の薄っぺらい空間の幅 」が公開されました. いつもカバー画像を提供してもらっている 谷口暁彦 さんの作品「思い過ごすものたち《A.》」と「滲み出る板《D》」を取り上げて, 具体的な厚さもつ iPad というモノとそのディスプレイが示す実質的な厚さをもたないピクセル平面とのあいだにつくられる「 板状の薄っぺらい空間の幅 」について考えています. 「厚さをもつ/もたない」は存在論的な話ではなくて,ヒトの認識のことでしかない.けれど,そのヒトに見えている部分=認識をちょっとずつバグらせた結果として,存在そのものも変わるのかなと,ふと考えました.認識の変化が存在を変化させる,というか,その存在の物理条件を明らかにしていくような感じです. 次回もがんばります😊😊😊 続きを読む
「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと 8/22/2011 東京藝術大学 芸術情報センター で8月20・21日に開催された公開講座「 グリッチワークショップ 」を見学しました. 「データを壊す」ってどういうことなんだろうと疑問から見学させてもらったのですが,とても興味深い内容でした. ucnv さん, 林洋介さんによるグリッジの技術的な講義と 針谷周作 さんによるグリッチの歴史とその可能性を示す講義といった,グリッチをめぐる技術と概念を端的に学べました.ワークショップ参加者は,技術を学んだあとに,グループごとに作品作りをしていたので,単に見学していた私よりもはるかに深く「グリッチ」のことを理解できたのではないかと思います.制作には参加しませんでしたが,私自身もこれから自分がメディアアートを考える上で役に立つような「グリッチ」という概念を得たような気がします. ここからはワークショップに参加した私の個人的な感想です. ucnv さんがグリッチの定義として「データは壊れているけれども再生できる」と言われていて,ここでの「壊れている」って何だろうと思いました. バイナリエディタで画像ファイルを開くと,その画像を構成しているデータが文字と数字ででてきて,この時点で自分的にはファイルが「壊れている」と感じてしまうわけですが,それは,画像を構成するデータの別の見え方であるわけです.「攻殻機動隊」や「マトリックス」で,緑の文字・数字が画面を覆い尽くすことのイメージや,概念では画像データを文字・数字で示すことは知っていても,バイナリエディタで画像ファイルを開くだけで,それが文字・数字ででてくると,やはりそれまでとは違って,やはりそうだったのかということを感じます.その文字・数字を適当なところで消したり,コピペなどで編集,保存して,その画像ファイルを画像として開くと,画像が変な感じになっている.バイナリエディタでやっていることは,自分の感覚からいうと「編集」という行為ですが,その結果生じた画像は「壊れた」と感じる.「編集」から「破壊」が生じるという変な感覚です.さらに,コンピュータにとっては別にそのデータが「壊れている」というわけではなくて,それをデータ通りに画像として表示しているわけです. 元画像 バイナリエディタで編集 (ちょっとした)グリッチ画像 コンピュータはデータは壊れ... 続きを読む
マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性 1/03/2010 フロイトは,自らの記憶と知覚のメカニズムに関する仮説のために,当時,売り出されていた玩具である,マジック・メモという装置を取りあげた.その理由は,この装置のイメージを表示する表面が,「いつでも新たな受け入れ能力を提供すると同時に,記録したメモの持続的な痕跡を維持するという二つの能力を備えている」2-11) からであった.フロイトは,「情報を無限に受け入れる能力と,持続的な痕跡の保存は,互いに排除しあう特性」2-12) と考えていたが,マジック・メモは,その相反する能力を同時に実現する装置であり,その構造は,次のように記されている. このマジック・メモは,暗褐色の合成樹脂あるいはワックスのボードに,厚紙の縁をつけたものである.ボードの上を一枚の透明なカバー・シートが覆っていて,その上端がボードに固定されている.このカバー・シートは,固定されている部分を除いて,ボードから離れている.この小さな装置でもっとも興味深いのは,このカバー・シートの部分である.このカバー・シートは二枚のシートで構成され,シートは二カ所の末端部分を除くと,互いに離すことができる.上のシートは透明なセルロイドである.下のシートは半透明の薄いパラフィン紙である.この装置を使用しない時にはパラフィン紙の下の面は,ワックス・ボードの上の表面に軽く粘着している.2-13) ここから,マジック・メモについてわかることは,大きく分けて,ワックス・ボードとカバー・シートという二つの部分から,この装置が構成されているということである.そして,カバー・シートは,透明なセルロイドの層と半透明の薄いパラフィン紙から構成されているので,全体としては,三層構造の装置ということになる.フロイトは,次に,この装置を使用するプロセスを詳細に述べている. このマジック・メモを使う際には,ボードを覆ったカバー・シートのセルロイドのシートの部分にメモを書く.そのためには鉛筆もチョークも不要である.受け入れ表面の上になにか物質を沈着させて記録を残すのではないからである.マジック・メモは,古代において粘土板や鑞盤に記録したのと同じ方式を採用しているのであり,尖筆のようなもので表面を引っ掻くと,表面がへこみ,これが「記録」となるのである.マジック・メモではこの引っ掻く動作は直接行われるのではなく,ボードを覆った二枚のシートを介して行われる... 続きを読む
「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相 3/03/2011 名古屋大学大学院文学研究科付属日本近現代文化研究センター が発行する『 JunCture 』第2号に「「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相」が掲載されました. この論文は藤幡正樹の作品《禁断の果実》《Beyond Pages》《未成熟なシンボル》における「平面」の性質を GUI の「平面」などとと対比しながら考察したものです. はじめに コンピュータと出会い、コンピュータ・グラフィクスにとりつかれてとうとう十年経ってしまった。私にとってアニメーションというメディアがコンピュータへの入り口であったなら、立体物を作ることはそこからの出口であるのかも知れない1。 このテキストは、アーティストの藤幡正樹が今から20年前に書いた「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」の冒頭部分である。しかし、藤幡はこの立体物《禁断の果実》(1990)を作った後も、ZKMのパーマネントコレクションになった《Beyond Pages》(1995-97)ほかコンピュータを用いた作品を作り続ける。そして、いまでは日本のメディアアートを代表するひとりとなっている。 藤幡正樹と言えば、コンピュータを用いたインタラクティブな作品を誰もが思い浮かべる中、2006年にアニメーション作品《未成熟なシンボル》が発表される。自らコンピュータからの出口と書いた《禁断の果実》の制作後もコンピュータを使い続け、インタラクティブな作品で世界中の評価を得た藤幡が2、なぜインタラクティブではないアニメーション作品を作るのであろうか。 きっかけから言えば、平面性という問題なんです。トランプは平面でできています。写真などをはじめとするイメージ画像というものは、平面であることが前提になっていますので、平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能ですが、立体的な物は扱い難いんです。その意味で、テーブルとトランプという組み合わせは、イリュージョンを作りやすいということがあったんです3。 《未成熟なシンボル》をつくるきっかけのひとつに「平面性」の問題があったと藤幡は述べている。アニメーションという平面から作品を作り始めて CG に行き着き、CG を立体化した彫刻を作り、インタラクティブな作品を数多く作った後に、再... 続きを読む
思考実験:念力でものを動かす 11/08/2009 思考実験.例えば,マウスを右に動かすと思ったら,マウスが右に動く.手を使わずに,ただ動くだけ.念力とよばれているやつ.実際,今やってみても,マウスは右に動きません.ブレインインターフェイスが開発されて,試してみたとします.右へ,マウス右に動く.おおすげぇ,と思う.ペン,右手に.ペンが右手のところにくる.これは,脳の中で,ひとつの文が作られて,それに対応しているように思える.となると,二つのことの同時に行うことはできないのはないか.僕は,ふたつの文を同時に書くことも,話すことも,思うことも,今のところできない.でも,身体は,右手と左手で違うことが,同時に出来たりする.そのとき,どんな文が脳の中にあるのか. いや,頭の中に文が生じないとモノにアクセスできないと考える自体が間違っていると言われるかもしれない.もっとイメージで考えているのだと.でも,イメージで考えるとしても,やはりひとつずつものを動かすことしかできないのではないか.でも,イメージに頼らなくても,「すべて」とか「あのへんのもの」とか考えれば,一度に多くのものを動かすことができる.イメージで広い領域をとらえて,その中にあるものの動きを同時に考えることができば,同時に,並行的にものを動かすことも可能かもしれない.でも,モノを動かすとなると,なぜか,脳の中に,命令形がうかぶ.ペンを右へとか,そこの文鎮こっちへとか. なんか,考えるということが,何かを同時に動かすときにボトルネックになってきているような気がする.考える=意識にあげることが,多くのものを同時に,各々異なる動きをつけることを不可能にしているような.脳の中だけだったら,同時にバラバラに動くものを意識できているような気がする.けど,それを現実と結びつけるとなるととても難しい.目の前にある積み木が個別に動くように意識してみても,それは個別に動くもののそれぞれの動きを全体としてひとつにまとめたものを意識しているような気がする. ここまで考えてきて,なんかマウスとカーソルのつながりと,マルチタッチ・ジェスチャーのカーソルとは関係がなくなった,カーソルが全く動かずにディスプレイ上のイメージがいろいろと動くことが,思い浮かんできた.別にマウスでなくても,トラックパッドの方がいいのだけれど.1本の指のときは,カーソルと連動している.カーソル右へと指を右に動かすとカ... 続きを読む
Poi Vol.1 featuring Nukeme_PDF 3/23/2017 科研費「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」研究グループは,2015年11月30日から12月21日にかけて,同志社女子大学京田辺キャンパス内 msc ギャラリーで開催された展覧会・Nukeme「Old School」を中心にして,ヌケメさんを特集した「Poi Vol.1 featuring Nukeme」を刊行しました. ヌケメさんを特集した科研費の報告書でもある「Poi Vol.1 featuring Nukeme」を各所で配布してきましたが,より多くの人に届いてほしいためPDFの配布も行いたいと思います.下のタイトルのリンク先にあるPDFは,「A4横1枚あたり2頁+小冊子」という設定でプリントしてステープラーで綴じてもらうと,実際の冊子の雰囲気が味わえます. よろしくお願いします. −− PDF版のPoiの置き場📚 https://shwca.se/poi Contents 1. Introduction 『Poi』創刊によせて(松谷容作) 2. Installation View Nukeme「Old School」展 3. Interview 《Old School》をめぐる対話 4. Lecture OS /テクスチャ/グリッチ 5. Workshop アイコンを彫る 6. Roundtable ポストインターネットをめぐって 7. Essay 破壊を引き伸ばし、デジタルデータと物理世界を干渉させてモアレをつくる(水野勝仁) 編集責任:松谷容作 ゲスト:Nukeme 編集:秋吉康晴、田川莉那、増田展大、水野勝仁 協力:二瓶晃、前田真由子 デザイン:増田展大 発行:2016/07/31 印刷・製本:株式会社太洋堂 主催:科学研究費基盤研究(C) 「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」 研究課題番号:15K02203 研究代表者:松谷容作(同志社女子大学) 続きを読む
スライド:情報美学概論A 第4回|ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1984ー1998 6/05/2011 東京藝術大学 芸術情報センター :情報美学概論A 第4回 ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1984ー1998→ スライド 年表みたいなもの ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1984-1998 (『 メディアアートの教科書 』の年表をもとに作成) 関連するメモ メモ:1984年から1998年のあいだ 参考資料 書籍 メディアアートの教科書 巻き戻された未来 映像 http://www.jeffrey-shaw.net/ http://www.courchel.net/ CAVE® - A Virtual Reality Theater - 1993 Interactive Plant Growing Knowbotic Research 視聴覚交換マシン A-Volve Music Plays Images X Images Play Music Beyond Pages Char Davies' Osmose ネットアート デヴィッド・ブレア《WaxWeb》 ダグラス・ディヴィス《World's Longest Sentence》 JODI《wwwwwwwww.jodi.org》 オリア・リアリナ《My Boyfriend Came Back From the War》 ビヨンド・インターフェイス開始@ウォーカー・アートセンター 続きを読む
「インターフェイス」に意識を向ける(2) 7/14/2015 界面を立体化させるインターフェイスのかたち 私たちはパプリカのように夢の世界には意識を保ったままいくことができませんが,多くの人は夢を見るし,また,コンピュータとのインターフェイスを通して仮想世界と呼ばれもうひとつの世界は行ったことがあるような感覚はもっていると思います.ディスプレイという面の上に対して,マウス.キーボード,カーソル,あるいは最近では自分の指を使って,「仮想世界」というもうひとつの世界とのインターフェイスとなっている面を自在に動いているように見えます.しかし,同時にディスプレイという「面」が「仮想世界」への移動を妨げているように見えます.このことを考えるために,私たちはディスプレイという平面だけではなく,マウスやキーボードのことも「インターフェイス」と呼んでいることに注目してみましょう.それは「界面」というイメージでありませんが,そのように呼ばれています.それはなぜでしょうか.それらはコンピュータとの関係において,私たちが自在に動くことを許してくれている面を立体化して,「界面」に「奥」をつくり出すように助ける装置なのです. 私たちが日々使っている「マウス」を考えてみましょう.アップル社のマジックマウスは丸みを帯びていて,有機的と言えなくはないかたちをしています.マジックマウスと同じ機能を果たすマジックトラックパッドは,単なる一枚の板みたいなデザインです.これは私個人の感覚ですが,マジックマウスの方が意識せずにディスプレイ上の世界にアクセスできるような気がします.ディスプレイという面の上までのアクセスにすぎないですが,そこでの行為がヒトの手のかたちあわせてある有機的なかたちをもつマウスの方が,トラックパッドという一枚の板よりも世界に入り込めるような感じがします.あるいは逆に,面には面をということで,トラックパッドのほうがしっくりくる人もいるかもしれせん.どちらにしても,界面へ作用を及ぼすモノのかたちが意味をもっているのです.マウスはもうひとつの世界を私たちの身体に合わせるインターフェイスで,トラックパッドはその逆なのかもしれません.これらのモノによって,単なる面であった界面が立体化するのです.立体化した界面によって,私たちはその向こうの世界に対してより奥深くまで作用(これが「幻想」かもしれません)を及ぼすことができるようになるのです. (問い... 続きを読む
ユビキタスと直接操作 6/30/2009 シュナイダーマンの「直接操作」 ディスプレイ上のイメージへの直接的な働きかけ. 私たちの手も「カーソル」に. 今では,比喩的な意味ではなく,タッチで実際に. 意味論的距離(semantic distance)と接合距離(Articulatory Distance) 意味論的距離を縮める. 意味論的距離を縮める際に,実は,ヒトの身体感覚を多大に利用していた. 接合距離も縮めていた. マークワイザーの「ユビキタス→穏やかな技術」 物理的なものへの直接的な働きかけ. アフォーダンスと消えること. コンピュータは消えていく. 意識にのぼらなくなるという意味で. 暗黙知.訓練.身体でおぼえる. 接合距離(Articulatory Distance)を縮める. 意味論的距離を縮められていないのではないか. 身体行為を重視しながら,ディスプレイ上のイメージとの関係を見失った? 最後は,物理的な物への注目. 続きを読む
Surfin' に見たふたつのデスクトップ───永田康祐《Sierra》と山形一生《Desktop》 6/17/2017 Surfin' を見てきた.永田さんの《Sierra》は「乱層のデスクトップ」という感じ,と書いてみて,すぐに「乱層」ではないなと思った.平面の重なりで,デスクトップという普段は静止画のところに動画が流れることで,ひとつ土台が崩れるというか,デスクトップが平面ではなく映像となることで,前提が崩れるというか,メニューバーやドックの奥にデスクトップがあることが,もうひとつだけ奥に行っているような感じがした.何が言いたいかというと,「デスクトップ」という平面が無効化されて,その奥に映像が流れていると感じたということなんだろう.「デスクトップ」がなくなってしまっている.けれど,その他のカーソルやウィンドウは通常通りである.だからこそ,少し感覚が狂う感じがある.失われた地面の上で通常通りの行為を行うという感じだろうか.永田さんの作品によく感じる平面がパラレルに重なっていく感じを,ディスプレイのデスクトップを基準に,その前面と背面でミニマルに行なっている感じがした.となると,それはディスプレイのデスクトップという平面での前面と背面との重なりが強調されると同時に,ディスプレイというモノとそれが置かれた空間における3次元的な重なり,ディスプレイとその裏側に置かれたMac Pro,ディスプレイ下からケーブルが伸びるヘッドフォン,もうひとつの平面であるトラックパッド,そして,それらを操作するヒト,ヒトがいる展示空間といったものが平面的に重なり合っている感じがでてくる.そこでは,ディスプレイのデスクトップ基点の重なりが確かにあると感じつつも,その重なりがあやふやになっているので,3次元空間で起こるモノの重なりが不思議に思えてくる.3次元を投影したデスクトップという2次元が消え去って,その重なりがあやふやに強調されて3次元的になって,その感覚が3次元に投影されるなかで,次元が折り重なるというか,2次元と3次元とが等価に投影し合うというありえない状態が生まれているのかもしれない. 永田さんの《Sierra》を見た後に,けど,この重なりは時間差で起こっている感じがある.机の上に形成された「痕跡」が,おそらく,かつて,そこに垂直に近い角度で「デスクトップ」が表示されていたことを示している.作品にはディスプレイはないけれど,ノートパソコンが置かれていただろう痕跡から,ディ... 続きを読む