変形していくためのiOS7

チェルフィッチュの岡田利規さんの『遡行 ---変形していくための演劇論』を読んでいる時に,iOS7が「フラットデザイン」を採用したことの意味に考えが及んだ.演劇からiOS,このつながりはおもしろいかもしれない.『遡行』という本全体から考えが及んだということではもちろんなくて,そのなかにある「演劇/演技の,ズレている/ズレてない,について」(『ユリイカ』2005年7月号所収)に書かれた「言葉」と「しぐさ」はほとんど同期しないということから,iOS7が思い浮かんで,「フラットデザイン」という視覚言語とガラスをスリスリするという行為との関係,いや,フラットデザインとSkeuomorphism(スキューモーフィズム)とのあいだの視覚的ちがいと,タッチのジェスチャーとマウスとのちがいを考え始めてしまった.


スキューモーフィズムが現実をディスプレイに移行させる「究極のメタファー」だとすれば.それはデスクトップ・メタファーに連なるもので,そこにはマウスがあって,マウスをクリックして,アイコンを「押し」ながら作業を行っていた.マウスというモノを掴んで押して,コンピュータにコマンドを与えていた.それは,現実にあるものをメタファーとして使ったというだけではなくて,現実で行っている行為も同じように使っていることになる.

マウスは実際に使うことなく,自分の指で多様なジェスチャーを使うことができるようになったが,それでも多くのことが現実のモノを模した「ボタン」や「アイコン」を押すということで行われていた.だから,iOSはデスクトップ・メタファーを使ってはいないけれども,Macで得られたメタファーの有効性をスキューモーフィズムで推し進めるとともに,マウスによる身体感覚も残していたといえる.

現実をディスプレイに移すときには,ジェスチャー・行為とイメージとを結びつける方法がとても重要になってくる.デスクトップ・メタファーはそこに「メタファー」という「言葉」の力を「視覚的」に応用して使った.iOSは「イメージ」そのものを使ったといわれていたが,実際は「スキューモーフィズム」という「メタファー」であった.iOSで行為は変った.しかし,行為と同期するためのイメージの本質的な部分は変わらなかった.それでもiPhoneの操作がさほどの苦労もなくできたのは,デスクトップ・メタファーで培った身体感覚と視覚的言語との結びつきがとても強固であったからであろう.それは現実の行為をディスプレイに移したものなのだから.ディスプレイに「現実らしき」ものをつくっておけば,とりあえず「押し」たりして,どうにかなったのである.


しかし,身体はつねに「変形」していく.iPhoneを使い続けていれば,そこにはiPhoneのための身体感覚が生成されていく.それはデスクトップ・メタファーとマウスとの感覚とはちがうものになってくる.それは「現実」固有の行為から離れていくことでもある.それゆえに,ジェスチャーと「現実を模した」イメージとのあいだに徐々にズレが生じてくる.ボタンがない画期的なユーザーインターフェイスをもつ「Clear」 の開発者であるフィル・リュウ(Phill Ryu)の言葉はこのことを端的に示している.

ボタンというものはタッチスクリーン端末において最も不満を募らせるインタラクションです.ちょっと考えてみれば明らかなことです.マウスを使っているときなら,ボタンをクリックするときに,実際に指でボタンを押しているわけだからまだ許せます.でも,スマートフォンを使うのであればガラスを擦っているだけで,まったくフィードバックがないわけですよ.
一夜にして世界中を席巻したiPhoneアプリ「Clear」の裏側 

リュウは「フィードバック」のあるなしを問題にしているが,問題はそれを含めた身体感覚そのものにある.マウスとモノをもっているのか,それともガラスの平面を指で擦るのか,そのときの手の動き,画面との距離などがすべて影響してくる.とくに「ガラス」というなめらかな質感をもつマテリアルが,ヒトとコンピュータとのあいだに入り込んできたことは重要である.「ガラス」は以前からヒトとコンピュータとのあいだにディスプレイというかたちで存在していたけれど,それは「触れる」対象ではなかった.しかし,現在ではそれは「触れる」対象となっている.それは,ディスプレイそのものもそうであり,トラックパッドにも使われている.ガラスが示す「なめらかさ」はスキューモーフィズムで表された「革」や「フェルト」の質感とは相容れないものである.




ディスプレイはもともと「光」でイメージを表示しているものであるから,そこでは「革」や「フェルト」の質感は再現できないとアーティストのラファエル・ローゼンダールは書いている→Apple, iPhone, iOS7, textures, flat, colors, screen, pixels.ディスプレイにあるのは「赤青緑の3色の光」にすぎないのだから,そこで現実を再現することはできない.ならば,そのような「質感」を与える必要はないというのが,ローゼンダールの考えであり,そのような作品をつくっている.IOS7が発表されたときに,ローゼンダールは数人の友人から彼の作品とiOS7のフラットデザインが似ているのではないかと指摘された.このことから考えると,フラットデザインはモノの質感を廃して,光の質感を利用しているといえるのではないだろうか.そして,その光はガラスを通してやってくる.その光とガラスから生じる「質感」を介して,私たちはコンピュータをジェスチャーで操作する.現実のモノの世界と結びついたデスクトップ・メタファーとの「別れ」がここにある.

デスクトップ・メタファーとマウスによって生み出された身体感覚を残しながらも,徐々に蓄積されていったジェスチャー独自の身体感覚に合致する視覚言語がiOS7で示されると期待してしまってもいいのではないか.

このブログの人気の投稿

Poi vol.1 featuring Nukeme

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

告知:第4回新視覚芸術研究会「デジタル時代の次元の折り重なり」【追記_2017/08/08】

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_16

紀要論文「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」(追記:2017/09/07)

Surfin' に見たふたつのデスクトップ───永田康祐《Sierra》と山形一生《Desktop》

Poi Vol.1 featuring Nukeme_PDF

授業ノート:ディスプレイ時代の芸術作品_ネット公開用

「Generated X [生成されたX]」の気配

「スピリチュアルからこんにちは」にこんにちは