[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_06

近頃,「世代」ということが気になっています.と言ってもただ,次のふたりの誕生年が一緒だったというだけなのですが,エキソニモの千房さんと作品集『The Speed Book』が面白かった アラム・バートル(Aram Bartholl)がともに1972年生まれなのです.アラムの『The Speed Book』に関してはCBCNETさんに「オンライン/オフラインを交差するリアリティ – アラム・バートルによる数々の実験的なプロジェクトを収録した作品集がリリース」という記事があります(作品写真もとてもきれいに載っているので是非読んでみてください)そのなかで,アラムの作品を含んだ状況の説明がされています.

彼の作品の多くが,インターネットが日常化した(もしくは陳腐化した)現代において,人々が感じるリアリティの変化やその質に注目したものだ.これは今年はじめにICCにて開催された[インターネット アート これから] 展でもテーマとしたポイントであったが,世界中でそういったテーマ性を持った作家や作品が登場している.これは一種のネット・アートの流れとして語られることが多いが,90年代のそれとは多様な変化(インターネット自体も含めて)を見せている.アラムの作品は,あるオブジェクト単体で完結するものではなく,そのシステムやキュレーション,場合によっては状況そのもの,など広範囲となっており,実空間に落とし込んでいる点が特徴的だ.本の中で,アーティストのEvan Rothは彼の作品はニューメディアアートより街で見かけるグラフィティのほうに共通項が多いとし,既存のシステムに入り込み,新たな価値を示す,という意味で「ハッカー」であるとしている.
エキソニモも「ハッカー」的ということがよく言われます.じゃ,アラムとエキソニモを「ハッカー」というひとつの言葉で括って,同じように扱えるかというと少し違う感じがしています.ともに「既存のシステムに入り込み,新たな価値を示す」ことはしているけれど,以下のちがいがあるのではないだろうかと思っています.
アラムはデジタルの出来事や存在を文字どおりそのままリアルに移植・もってくることで出てくる「ちがい」があたらしい価値を生み出す. 
エキソニモはデジタルの出来事や存在から生じている私たちの感覚を抽出して,それをリアルで「リアル」に体験できる仕組みをつくることで,あたらしい価値を生み出す.
アラムの作品は作品集を見ているだけでその面白さや「あたらしさ」を理解することができるような感じがするのに対して,エキソニモの作品は見るだけはその面白さや「あたらしさ」を理解することが難しい感じがする.アラムの作品自体を「リアル」に見たことがないのであくまで「感じ」です.

しかし,どちらにしても「デジタル」を「アナログ」にもってきて体験させてくれるという点では同じかなと考えています.「デジタル・アナログ」と書くととても陳腐だけれども,私たちに「デジタル」で起こっていることを「そっくりそのまま」に近いかたちで体験させてくれる作品はあまりないように思えます.Google Mapsでピンを置くことを,そっくりそのままリアルに「リアル」で再現したときに,デジタルでやっていた「ピン置き」が「結構,大掛かりなことなのかもしれない」と思ってしまうことは重要で,そこから「なんで,デジタルだと簡単にできてしまう」のだろうと考えざるを得ないのです.

はじめに「世代」が気になると書いておきながら,アラムとエキソニモの比較だけになっているので,ここらで「世代」的なことを.1972年生まれのアラムと千房さんには,「ハッカー」という言葉が,1986年生まれのペトラ・コートライトには「デフォルティスト」という言葉が当てはまって,その間に,1977年生まれの自分がいる(デフォルティストといのはパソコンの「デフォルト」の機能を使うという感じ→Hacking vrs. defaults).自分は「ハッカー」的なことはできなくて,デフォルト機能を使いまくる「デフォルティスト」なんですが,「ハッカー」的なくくりのアラムとエキソニモの作品の方が,「デフォルト」的なペトラの作品よりも「分かる」気がしています.

「ハッカー」と「デフォルト」という区切りはすでにあるものなので,自分なりにもっとしっくりくる区分けを見つけたいなと思いつつ,でも多くの作家を調査するのではなくて,アラムとエキソニモの対比をもう少し深くやってみることで何か見えてこないかなとも考えています.そこにペトラとか,谷口暁彦さんといった1980年代生まれの作家をもってくるとどうなるのかなと,ぼんやりと考えているところです.それが[インターネット アート これから]の「これから」を考えることにもつながるのかなとも思っているところです.

と書いてきて,CBCNETの記事ではアラムの作品は「オンライン/オフライン」で区切られているのに,ここでは「デジタル/アナログ」で区切っていたりして,このあたりの言葉の使い方にも考えるヒントがあるのかなと思いつつ.

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