座談会 GIF 版画?

3月4日(日)にICCで行われた座談会「『ポスト・インターネット』を考える(β)」に参加しました.そのときに,1時間くらい「ポスト・インターネット」について話しました.そのときのノートがこれです.誰でもコメントができるようにしてあります.


私の話の後で「インターネット・リアリティ研究会」の栗田さん,谷口さん,萩原さん,そしてICCの畠中さんでディスカッションを行いました.そこではとても興味深い話が多くのでたのだけれど,そのなかでも印象に残っている画像形式のひとつのであるGIFについて言われていたことをちょっとメモしておこうと思います.

私の話のなかで,「new jpegs」という展覧会のことを取り上げたのだけれど,この展覧会名がなぜ「new gifs」ではないのかということがひとつの疑問になっていた(「new jpegs」については以前のエントリー「new jpegs インターネット アート これから ちがい?」で書きました).この展覧会は,ギャラリーにある作品を撮影して,そのイメージを更に改変してネットでも展示するというものなのですが,この作品を撮影するという点で,GIFではなくJPEGが選ばれているということを,谷口さんが言っていた.GIFだと色数の制限もあるから作品そのものを記録することがきないので,GIFという画像形式を選んでしまうと,展示とネットとのあいだにひとつの断絶が無駄に生じてしまうというようなことだったと思う.

座談会の時にはすぎには反応できなくて,次の日の夜になってお風呂に入りつつ,このことって面白なと思うわけです.今まででは展示してある作品・オブジェクトを撮影して,イメージにしてしまう時点でひとつの断絶であったわけですが,ここではそれは断絶とは見なさないわけです(ここでオブジェクトとイメージとのあいだに起こる断絶をうまく使ったのが建築家のル・コルビュジエだったというようなことが,ビアトリス・コロミーナの『マスメディアとしての近代建築―アドルフ・ロースとル・コルビュジエ』に書いてあったような…).オブジェクト→イメージへの移行がスムーズに起こるとして,そこでの画像形式がJPEGだと地続きで,GIFだと断絶ということになる.GIFは劣化した画像だからということに由来するのだけれど,JEPGもGIFも画像ということにもは変わりないのに,形式によって断絶のあるなしが生じてしまうということが面白いなと思ったわけです.

ということを考えていたら,GIFが劣化した画像だとしたら,写真に対しての版画みたいなものかなと.でも,写真と版画では全くもってちがうけれど,ウィリアム・アイヴィンスの『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』には,写真以前にイメージを大量複数するには版画しかなくて,その時代に美術史家などは版画によるイメージで見たこともない絵画とか彫刻を論じていたということが書かれていたような気がする.表現と流通とが結びついている部分は,写真と版画ということ,JPEGとGIFなどの画像形式の問題の根は同じなのかもしれないと思いつつ,何かちがうかなとも感じつつ.

GIFとJPEGから写真と版画,そして「表現論と流通」というのが,ひとつながりの考えるべきこととしてでてきたので,過去と接続していると学会とかで発表しやすいので,このあたりから学会発表を考えてみたいな,と.

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