「表面」,「平面」に縛られているのかもしれない

インタラクションデザインは人間と論理的世界のせめぎ合い、それが与える経験、便利とか役に立つという日常からより精神的な世界へ。論理的な健全性を持ちながら、生身の身体とインタラクションをして精神性を与える。美学と倫理と論理の世界だ。カント的宇宙を超えて、この3者の融合は可能なのか?
慶應大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)の奥出直人さんのツイート.インタラクションデザインがすべてを総合する学になるという宣言.私はこのツイートを読んだとき,そう思った.

私はヒトの身体がどのようにコンピュータが作り出す論理的世界に入り込んできたのかをGUIで考えてきた.そこでは「メタファー」が大きな役割を果たしていると,自分では結論づけた(→メタファーと身体との関係).ヒトはコンピュータと共同でひとつの世界を作り出した.そのときに必要であったのは,コンピュータ科学だけではなく,ヒトがこれまで世界に対処してきた言語,身体から生まれた能力であった.

今まで,そのひとつの世界の生成は,ディスプレイの表面だけの出来事であった.ディスプレイ上だけでも「ひとつの世界」を作ることは,とても大きな意義があったけれど,それが画面を飛びだしてきた.KMDはヒトとコンピュータとが作り出す新しい「ひとつの世界」を作り出そうとしている.大きなヴィジョンである.

しかし,私は「ディスプレイ」に留まりたい.インタラクションが起こる表面に留まりたい.タッチ型インターフェイスになった「メタファー」が画面から消えたと言われる.多くのメタファーが陳腐化して,死喩となっていくように,「デスクトップ」からはじまったヒトとコンピュータとを結びつける「メタファー」はなくなっていっているのかもしれない.「メタファー」がなくなることは何を意味するのか.と同時に,コンピュータの論理的世界がディスプレイの外にも飛び出してきていること.「メタファー」がなくなっても,「ひとつの世界」がディスプレイを飛びだしても,それでもディスプレイ,インタラクションの表面は残る.「表面」,「平面」に縛られているのかもしれない.インタラクションデザインは,もっと立体的な出来事なのかもしれない.

これまでも,そしてこれからもディスプレイの表面で,コンピュータとインタラクションしていくヒトにどのような精神性が生まれてくるのか.この考えはやはり「表面」に縛られている.奥出さんのツイートにある論理的世界はもっと広大なものだと思う.でも,私はそこまで考えを広げることができない.だから,ディスプレイに戻る.「表面」,「平面」に戻る.

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