次の学会発表のためのメモ(2) :ヒトの気配,コンピュータの気配

次の学会発表のためのメモ(1):映像の間主観性(?)

「間主観性な映像:映像|データ|モノ」というタイトルにしてみようかな.《タイプトレース》《断末魔ウス》ともに,映像に「ヒトの気配」を感じている.この気配は身体から抽出されたデータから構成されている.映像はデータに基づいており,データはヒトを取り込んでいる.そして,このデータはコンピュータが生み出している.また,コンピュータがディスプレイの向こう側にヒトがいるのかモノがあるのかを判断する逆チューリングテストを考えると,そこではヒトとモノは等価である.データの流れの中では,データに基づいた映像の中にヒトの気配があり,ヒトとモノは等価である.

これらを成立させているのがヒトとコンピュータとのコミュニケーション回路を構築する映像であり,それは間主観的な映像なのではないか.この間主観的な映像に,私たちはヒトだけでなく,実はコンピュータの気配を感じとっているのではないか.
対立し合う仮説群からの選択に客観的根拠はあるのだろうか,われわれは,とりわけこの事例に関しては,根拠を「客観的」たらしめるものは何なのかという点を問う必要がある.私の考えでは,客観性の究極の源(根拠ではない)は,間主観性である.他人とのコミュニケーションに携わっているのでないかぎり,まちがっている(ひいては,正しい)という考えの拠り所となるものは,われわれの発言のうちにも思考のうちにも,まったく存在しない.思考とコミュニケーションの可能性は,どちらも,私の考えでは,複数の生物が,共有された世界からの,また相手からの入力に,おおむね同時的に反応するという事実に依存している.われわれはよく,ある人がたとえば狼に対して「同じ仕方で」反応すると言う.しかし,もちろん,この場合の「同じ」は「似た」の意味である.ある人がある狼を別の狼と似たものとみなしていると主張するさいのわれわれの根拠は,その人が狼たちに対して似た仕方で反応しているという事実である.このことは次の疑問を呼び起こす.つまり,反応を似たものとするものは何なのか.これに対する唯一の答えはこうである.つまり,誰か別の人から見れば,一連の狼や,最初の人物の一連の反応は,たがいに類似している,ということである.もちろん,このように答えても,基本的な問題をもう一度先送りすることになるだけである.とはいえ,複数の生物がおたがいに対して,あるいは世界内の共有された刺激に対して示す一連の反応からなる,因果関係の三角形の絆こそが,真理概念が適用されるための必要条件を提供するものである.ウィトゲンシュタインが強く示唆したように,第二の人物もいなければ,ある反応がまちがっているとか,ひいてはまた,正しいとかという判断には,いかなる基礎もない.(pp.140-141)
第5論文 不確定性の主張と反実在論 :主観的,間主観的,客観的 ドナルド・デイヴィドソン
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座標データ(=客観的)に補完(=主観)を行う映像(=間主観的).データを補完する映像ではなく,私たちにデータの補完を行わせる映像.物語の補完ではなく,データの補完.補完の程度→主観をどれだけ取り込むか=因果関係の中に入る:データを抽象から引きづり落とす.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/12200815456

ライフログにおいてデータ化される身体.身体から情報が抽出される.抽出された情報で,身体が抽象化する.このプロセスに映像が入り込む.映像によって抽象化された身体が具体的なものになる.なぜなら,映像と情報とが結びつくことによって,映像がモノ化し.モノ化した映像が身体となるから.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/12201092217

ライフログにおいてデータ化される身体.身体から情報が抽出される.抽出された情報で,身体が抽象化する.このプロセスに映像が入り込む.映像によって抽象化された身体が具体的なものになる.なぜなら,映像と情報とが結びつくことによって,映像がモノ化し.モノ化した映像が身体となるから.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/12201092217

コンピュータが生み出すデータの流れ.その流れの中では,ヒトとモノとは等価である.ヒト|データ|モノによる抽象的な三角形.データに基づいた映像が三角形の中のヒトを具体化する.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/12274670499

ヒトとコンピュータとの間の間主観性
写真論の御三家のうち,
ベンヤミンとソンタグを読んだり,
「写真,その語りにくさを超えて」を読んでいたりして,
写真についてぐるぐる考えるというか,
使えるテキストを抜き出している.
客観と主観でまとめるのではなくて,
間主観性を入れて映像を考えてみること.
でも,どうやってやればいいのかわからない.
コンピュータを介して「データ」という項目を,
客観と主観の間に入れることで,
ひとつの対象に対して,
ヒトとコンピュータとの間の間主観性,
ヒトから考えるコンピュータ,
コンピュータから考えるヒト,
この双方からでてくるだろうコミュニケーションの問題.
http://mmmemo.posterous.com/16471427

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