「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(1):「1999」と全体の流れを考えてみた

「エキソニモの『猿へ』」を見てきた.考えるべきところはたくさんあって,ひとつひとつ潰していくと次の「風景」が見えてくる感じがする.

最初の狭い通路.期待感を持たせるし,「ナローバンド」という言葉とも結びつけられる.狭く長いからこそ「ネット」のオリジナリティが今よりもあったのかもしれない.狭い通路の先で回り続ける「地球」はネットがよりネットだったときの象徴としてあるのかもしれない.そして,そこで語られるエキソニモのステートメント.インターネットを手に入れた人類とその急激な進化は,ネットそのものの変化でもあった.



ステートメントの先には「1999」という文字が床にある.今から14年前の風景.次のセクションは「2005」で,その次が「2009」.「1999−2005」のあいだで,ネットは一般化していってひとつの風景になった.このセクションにはみんながつくったRGBのきらめきがプロジェクションされ,ネット上の構造=意味が剥奪された画像が飛びかっている.このあたりはとても「今」を感じさせる.それは集合知やその反対といってはあれだけれどもタガが外れてしまった「集合愚」にもなりうるような麻薬のような効果をもった「インターネット」を感じさせるという意味での「今」.



そして,Googleの検索窓がひとつの風景だった時代を示す絵画の展示.ブラウザのアドレスバーが検索窓になってしまった現在では,Googleの検索窓の風景は誰もがよく見る風景ではなくなっているとともに,絵画に描かれた「Internet Explorerの窓枠を含めた風景」そのものも,ブラウザのアップデートとGoogleのデザイン変更によってなくなってしまった.なので,この絵画に描かれた誰もが同じデザインを見ていた時代が懐かしい.風景は消滅したが,それを「撮影」したスクリーンキャプチャーの画像は存在し,その画像が中国に送られ人力APIとしての絵師によって「絵画」に変換され展示されている.だがこの絵画は「レプリカ」である.この作品でオリジナルとされる絵画はGoogleに所蔵され,一般の人は余程のことがない限り見ることができない状態にある.しかし,もともとが誰もが見る風景の「スクリーンショット」であり,それを「絵画」にするということでは,オリジナルもレプリカもないのではないだろうか.もともとインターネットを介してディスプレイに表示されるものはデータのコピーにすぎないし,それをスクリーンショットでさらにコピーして,さらに絵画にコピーしているというプロセスでもある.そこにさらに中国の絵師が絡んできて「何がオリジナルか」が分からない部分が「今」を感じさせるとともに,2012年に行なわれた展覧会[インターネット アート これから]には展示できなかった「絵画」が展示されていることに,エキソニモの気概を感じる.

[「2005」「2009」セクションはまた別の機会に考えたい.自分的には「2005」のセクションが大きな謎として存在している.]

「猿へ」の展示は「1999」「2005」「2009」と続いていくが,「2013」に近づくにつれてネットから離れていく感じがある.「2009」セクションにある「ゴットは、存在する。」シリーズのなかにあるTwitterを題材にした《噂》があるようにネットを用いているものはあるけれども,どこか「インターネット」そのものを扱っているという感じはしない.もう「ネット」を「ネット」として単体として切り離すことが難しいからかもしれない.

また年代が今に近づくにつれて,「パソコン」と呼ばれるものからも離れていく感じがある.最後の作品はマウス・キーボード・ディスプレイといったコンピュータのかたちを離れ,スマートフォンからの「プロジェクション」になっている.「インターネット」という技術から始まって,最後はプラトンの洞窟ではないけれど「プロジェクション」という古の技術で終わるのは興味深い.技術の変化に呼応するように大人が書いたものから子供が書いたものへと変化していく手書きキャプション.そしてプロジェクションには「#猿へ」の文字.ネットを手に入れて進化していった人類を考察した結果得られたひとつの答えが「#猿へ」の回帰? 「回帰」ではなく,「猿」に似た「#猿」というもうひとつの存在への着地だとすれば面白い.

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