「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(3):あとはPCにまかせた
「2009」セクションの大半は連作「ゴットは、存在する。」(2009−)で占められている.このシリーズについてはICCや国立国際美術館での「世界制作の方法」展のときに一度論じている(→イメージを介して,モノが「祈る」,「情報機器に在るはずのない精神を感じさせる」存在としてのカーソル )「ゴットは、存在する。」の作品には「お手を触れないでください」マークがつけられている.ここでも「あとはPCにまかせた」状態である.
今回特に気になったのはGoogle日本語入力の「かみ」の変換候補を示し続ける情報彫刻《迷》(2010)である.《迷》では変換候補をループし続けるためにキーボードのスペースキーのところに「りんご」が置かれている.以前この作品を見た時にはアルスエレクトロニカのトロフィーがスペースキーを「押し」ていた.今回は「リンゴ」.キーボードの上にあるMac miniにも「りんご」が描かれている.これは洒落だろうか.コンピュータにとってはキーボードを押す存在がヒトである必要はないわけで,りんごもキーを「押す」ことができて,そのことによってコンピュータが「迷う」.ヒトも変換候補をどうしようかとスペースキーを押して迷うけれど,りんごも迷える.りんごというひとつの決定をすることなくスペースキーの上にあり続ける存在だからこそ,コンピュータは「迷い」つづけることができる.いや,コンピュータは迷っていない.それはスペースキーが押されているがゆえに起こる決まった反応にすぎないものであり,それを見てヒトが「迷」という文字を想起する.ヒトがいなければ「迷」という字は出てこないけれど,ヒトがスペースキーを押し続けているとそこには必ず「決定」が入り,「迷」は続かない.ここで書いたことのすべてはコンピュータにはどうでもいいことであって,それは「迷」も「決定」の連続でしかない.そんなコンピュータに向かってヒトはキーボードを打ち続ける.
「2009」セクションの最後にはiPhoneとプロジェクターを接続してあらゆる場所への映像の「爆撃」を可能にするiPhoneアプリ《VideoBomber》(2012)が展示されている(これもまた「お手を触れないでください」マークつき).マウス,キーボード,ディスプレイというコンピュータのかたちから離れて,iPhoneアプリとプロジェクターとの組み合わせたものがキャプションを付された最後の作品となっていることは何を意味するのであろうか.展示会場ではそれほど気にならなかったが,先日IAMASで強会をした際に,城さんが「展示していない作品から今回の展示を考えるとおもしろいのではないか?」と言っていて,そのときからなぜ最後が《VideoBomber》なのか気になり始めた.「2009」セクションが「あとはPCにまかせた」からはじまるのであれば,ヒトがプロジェクターを担ぐ《VideoBomber》ではなく,超能力で折られたスプーンをUstream上で接合する《SUPERNATURAL》(2009),もしくは,「カーソル」を示す「↑」をつかってリアルと仮想とを撹乱させる《↑》(2010)の方がしっくりくるのではないか.しかし,エキソニモは《VideoBomber》を展示している.そこには展示空間という物理的な制約があったのかもしれない.だとすれば,《VideoBomber》を展示しない方がスッキリ終わったのではないかと考えてしまう.けれど「スッキリ」と終わらせてくれないのが「エキソニモ」らしい感じもする.「スッキリ」させるためには,展示の流れのなかで《VideoBomber》を考える必要がある.それは「マウス−カーソル」から「タッチ」へというインターフェイスの枠組みの変化かもしれないし,「ゴットは、存在する/しない。」とも関係するかもしれない.このことについてはまた改めて考えてみたい.