メモ:モクモクと湧き出る画像とともにある行為

「画像とともにある行為」ということが思い浮かんだ.画像というのはもう何か表現していることがメインではなくて,その後の行為が重要ということを考えた.「写メール」がその先駆け的な言葉なんではないかと思う.「写真+メールする」ということ.今だと,インスタグラムで「写真+フィルターをかける+共有する」ことや,Tumblrでいい画像が流れてきたら「画像+リブログ」みたいな感じ.これらの流れがアプリやウェブサービスのなかでワンセットになって,途切れなく行われるところが重要だと思う..

博論で考えた「ディスプレイ行為」もヒトとコンピュータとがディスプレイ上の画像を介して,途切れなく行為を行なっていくことが重要だとしていた.GUIやテレビゲームと向き合うなかで,ヒトは自分の身体と画像とが滑らかにつながりながら行為をするディスプレイ行為に慣れていった.そして,その慣れた行為とともにイメージで溢れかえるインターネットでヒトが行いはじめたのが「画像とともにある行為」と考えてみる.インターネットととにもこの行為が始まったわけではないけれど,近頃の画像をめぐる状況の変化によって,私たちがイメージに何を期待するのかが変わってきているのではないのかということ.

その期待の変化の根本にあるのは,イメージに対して「コピー・オリジナル」意識がなくなっているということ.ネット上ではそのイメージに対してどこかに「スペア」がある感じがある.「コピー・オリジナル」と「スペア」という言葉の違いを明確にする必要があるのだけれど,コピーだとオリジナルには成り得ない感があるけれど,スペアだとオリジナルと同等というか,それに成り代われる感じがあるし,オリジナルももともとスペアが前提になっていると,「これがオリジナル!」という感じが少くなるような気がする.

「スペア」ではなくて「ソース[源]」なのかもしれない.ラファエルが自分の作品を「ガスのような作品」と言ったところから考えたガスの「ソース=ソースコード」.そうすると,画像が確固としたひとつのかたちをもつ「固体」であるという認識を捨てて,それはどこかの「ソース」からモクモクと湧いてて,その枠組みによって様々なかたちに変化していく「気体」だと考えるとおもしろい.ソースから湧きでた「気体」にあるひとつのかたちをつけるために何かしらの行為が用意されていて,それをヒトが実行すると「画像」がつくられる.

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