メモ:イメージ→シンボル

プッシュ通知|風景|2013 
Constant Updateが示す風景
--
エキソニモの《風景2013》とFatima Al QadiriとDalton Caldwellによる《Constant Update》から「イメージ」が抜け落ちていることが,ずーっと気になっている.「イメージ」が抜けて落ちていることが「視覚文化」の移行期を示しているのではないかと思いつつも,私たちの周りにはディスプレイに溢れている.ディスプレイを見ればそこには「イメージ」がある.それを見て,何か行為をする.だから,イメージが私たちの行為を駆動していると言えるわけだが,上にあげたふたつの作品からは「イメージ」がなくなっている.

アラン・ケイの「Doing with images makes symbols」はGUIをつくるときのスローガンとなった.だから,GUIは視覚的要素=イメージを操作することになる.問題は「シンボル」をつくり出せたのかということになる.GUIを操作している人たちはアイコンやカーソルなどのイメージを操作しながらコンピュータを操作しているので,なんとなくではあるが「シンボル」ができている感じがする.GUIを牽引したデスクトップ・メタファーではとくに「視覚的要素」が重要だった.タッチになってもそれは同様であった.ウェブデザインの流行りの「フラットデザイン」も視覚的要素で構成されていることは変わりがない.ただ「フラットデザイン」では「メタファー」がなくなっている.だとすると,上のふたつの作品からは「イメージ」がなくなったのではなく,「メタファー」がなくなったのだろうか.

−−
フラットデザインに関して興味深い考察.この考察から,フラットデザインは最小限の視覚的要素とジェスチャーを組み合わせて,ヒトの行為を「プログラミング」すると考えることはできないだろうか.

ファンシーなUI部品を誇示したり,あらかじめ決められたタスクをメニューとして強調するのではなく,もっとユーザーが自然にシステムをコントロールできるようにするにはどうすればよいか.必要最低限の要素でシステムの機能性を表現するにはどうすればよいのか. 
フラットデザインは,そうしたUIデザインの本質的な部分の模索だと思います.そして次のことを示唆していると思います.すなわち,情報を処理するためにUIを操作するという手続き的な利用モデルではなく,もっとユーザーがコンテンツと直接インタラクトしていると感じるような利用モデルへの移行です. 
それがどのような操作になるのかは具体的には分かりませんが,来るべきUIのポストモダニズムでは,静的なグラフィックによってシステムを表現するのではなく,ジェスチャに対する多様な反応やコンテンツの連続的な状態変化によって,ユーザーとシステムとのコミュニケーションが形成されるような,モードレス・ユーザーインターフェースの方向に進化していくだろうと思います. 
フラットデザインはUIを進化させるか ,上野学
−−

アイコンとカーソルとの組み合わせで最適化した情報の提示して「いいね!」ボタンを考えているテキストがあった.

That simple click is nonetheless quite fulfilling, because it seems to “permit us to join with all others”; and also insidious, because the gesture (along with our training) erases the actual purpose, which is to submit data to Facebook. As such, the Like button may represent the zenith of the mouse-and-keyboard interface. 
Gestural Abstractions, Alexander Provan  

「なるほど」と思った.ボタンを押すという最小限の行為が,ひとつの情報を伝えていることになる.単に「いいね」というだけだが,確かにこれはアイコンとカーソルとの組み合わせで発生する情報,超低解像度の情報である.そこには「いいね!」しかない.でも,それが情報として伝播する.プッシュ通知も「いいね!」にちかいし,プッシュ通知が「いいね!」を告げる.だとすると,上のふたつの作品から「イメージ」が抜けた落ちたのではなく,それは最小限の要素で構成されるようになったと考えたほうがいいのかもしれない.最小限だから「メタファー」も抜け落ちた.最小限の行為と最小限のイメージとを組み合わせて,ヒトを動かす仕組みができあがったということだろうか.

ディスプレイに映っているのが「イメージ」ではなく「シンボル」だと考える.ヒトを動かすために刺激を与えるための「シンボル」だと考える.それはイメージはなくシンボルである.「Doing with images makes symbols」のスローガンから30年以上経って,「イメージ」が「シンボル」になったと考えることはできるであろうか.ディスプレイに映っている「イメージ」をヒトの行為=ジェスチャーをプログラミングするための「シンボル」だと考えるような意識が生まれているのではないだろうか.その意識をエキソニモの《風景2013》とFatima Al QadiriとDalton Caldwellによる《Constant Update》や,フラットデザインの流行が示していると考えられないだろうか.

このブログの人気の投稿

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

小林健太「自動車昆虫論/美とはなにか」のトーク:本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか

インターフェイス再考:アラン・ケイ「イメージを操作してシンボルを作る」は何を意味するのか.

メモ:須賀悠介の《Empty window》を見て

サマーウォーズ:身体とアバターのデザイン(1)

Surfin' に見たふたつのデスクトップ───永田康祐《Sierra》と山形一生《Desktop》

告知:SOBOでucnvさんとトークします

MASSAGE連載11_光/絵具で塗りつぶされたディスプレイ エキソニモ 《201704EOF》、《A Sunday afternoon》

メタファーと身体の関係

「スピリチュアルからこんにちは」にこんにちは