健忘症になって巨人の肩から飛び降りる
IAMASの城さんと勉強会をしようということになって,お題が「引用・参照」になった.そこで一度読んで「巨人の肩を降りる」という表現が気になった,ブラッド・トルメルの「The word “Remix” is corny(2012)」を再読してみた.さらに,「リミックス」という言葉から,レフ・マノヴィッチがリミックスについて書いた3つのテキスト「Introduction to Korean edition of The Language of New Media(2003)」「Remixing and Remixability(2005)」「WHAT COMES AFTER REMIX?(2007)」を読んでみた←これら3つはマノヴィッチのページで読むことができる.
「The word “Remix” is corny」を最初に読んだ時のメモ.トルメルは「プログレッシブ ヴァージョニング progressive versioning」」という「巨人の肩を降りて」しまって「起源」を問わない作品の派生の仕方を提案している.「new2」というのはオフラインの展覧会のことで,詳しくはここで紹介されている→CBCNET:LOG「オフラインでオンライン作品を見る展覧会 「OFFLINE ART: new2」」.
息を吸うようにコピーをしている現状のなかで,リミックスがあたり前というか,「更新」ということがあたり前になっているなかで「リミックス」を改めて考える必要があるのではないか.
Brad Troemelの「The word “Remix” is corny」を読んだ.リミックスは「古臭い」ということなんだけれど,Toremelはリミックスをふたつに分けていて,ひとつは「A→Bリミックス」.これは今までどおりのリミックス.オリジナルがあって,そこから派生していくもの.これが古臭いということ.もうひとつは「プログレッシブ ヴァージョニング progressive versioning」は何がオリジナルか,その由来がわからなくなるようなリミックス.「リミックス」というより,作品のバージョンを変えてしまうということ.ここでは誰が,いつ作ったのか関係ないことにある.この背景にはTumblrのリブログのなかでキャプションが抜けていくことがあるのでしょう.
「プログレッシブ ヴァージョニング progressive versioning」では最終形が前提とされていないとあって,このあたりは常にファイルが更新されていくという「new2」と通じる部分がある.息をするようにファイルをコピーして,バージョンを変えていくこと.その意識と背景を考えることが必要.
また,Toremelは参照していないけれど,ネルソン・グッドマンの「バージョン」と組み合わせて考えてみても面白いかもしれない.
マノヴィッチのテキストを読んでのメモ. 最初のものは「Introduction to Korean edition of The Language of New Media(2003)」を読んだときのもの.マノヴィッチは「オリジナル」を想定している感じがある.「オリジナル」と「コピー」ではないけれど,「オリジナル」がシステマティックに改変されることが「リミックス」と考えている.2つ目のメモは「Remixing and Remixability(2005)」を途中まで読んだときに書いたものだと思われる(よく覚えていない).コンピュータの論理が導き出す「モジュール」によってリミックスをつくるということから,「過去」ではなく「未来」から「リミックス」ということ.
「リミックス」という言葉が「オリジナル」の所在を暗に示しているとすると,マノヴィッチが示す3つのリミックスでは何が「オリジナル」と考えられているのか.恐らくそれは「過去」「ローカル」「文化」であり,「現在」「グローバル」「コンピュータ」はそのカウンターなのではないか.
2つの軸を持ち出すことが,トルメルとは異なるところかもしれない.「progressive versioning」と「リミックス」とのあいだにある意識の変化を考えるのに,トルメルとマノヴィッチとを対比させてみる.
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「過去」ではなく「未来」からのリミックス.[「論理」に導かれるリミックス]=プログレッシブ・ヴァージョニングなのか? ここの相違を考えることは重要.
マノヴィッチは「背景」を書いている感じがする.「理想」というべきことを現場から導き出す.トルメルは「理想」なき現場のあり方をそのままの状態で言語化しているのかもしれない.
マノヴィッチのテキスト3本とトルメルのテキストを再読した後でのメモ.マノヴィッチの「モジュール」の考えは今でも充分興味深いものであるが,そのモジュールすべてに「作者」が記されていることを前提していることが,「リミックスの後」の世界の認識とズレているのはないのか.Tumblrでの「クレジット抜け」などから,参照関係を解体してしまい「起源」を消失させるトレメルの方が「リミックスの後」をうまく言語化しているのではないだろうか.
リミックスとプログレッシブヴァージョニングとの違いは「参照」への意識と「現在」のあり方.後者は「現在=期限の消去」のみの感じ.前者は「過去」と「未来」につながりを持つ.
ここでの「リミックス」はレフ・マノヴィッチの考えから.マノヴィッチをひとつの基準として,トルメルと対比させてみると面白いかなと.トルメルはマノヴィッチに言及しないのは,自分が「(ニュー)メディア」側ではないと認識しているからかもしれない.トルメルはマノヴィッチではなくバルトやマクルーハンを参照する.
マノヴィッチの「リミックス」のもとにあるのは「モジュール化」という考え.様々なコンテンツが「モジュール」になっている.そして,そのモジュールがどんどん小さくなっていくということ.しかしここでの「モジュール」は,テッド・ネルソンが考案したハイパーテキスト・システム「ザナドゥ」のように参照関係がしっかりと構築されていることが暗に前提されているように思われる.なので,マノヴィッチは「参照関係」については言及しない.対して,トルメルは「プログレッシブヴァージョニング」で参照関係を解体し,「起源」を消失させる.この意識のちがいは大きい.
また,マノヴィッチは「リミックス」の後にくるものはわからないと明言している.次に来るものがわからないからこそ,「リミックス」とは何かをしっかりと認識すべきだとしている.
ファイルはコピーされ更新され続けるなかでの「リミックス」のあり方として「プログレッシブヴァージョニング」があり,それは「参照・引用」を解体していくものとなっている.この考えは「古臭く」なった「リミックス」に再び活力を与えるものかもしれないが,「参照・引用」を解体することには多くの賛同が得られない感じもする.私自身は「プログレッシブヴァージョニング」に賛成だが,「参照・引用」はシステム的に保持すべきではないだろうかという気持ちもある.「参照・引用」のためのモジュールは膨大であるので,そのすべてに当たるのは不可能であるし,ヒトは忘れやすい.だから,もうヒトは「健忘症」にかかってもらって,「起源」などを気にせずに手当たり次第にモジュールを結びつけていき,その「結びつき」に対してシステムが情報を付加していくことができればいいのではないか.