Constant Updateが示す風景
Rhizomeは毎年アートとテクノロジーに関するカンファレン「Seven on Seven」を開催している.このカンファレンスをユニークにしているのは,7人のアーティストと7人のテクノロジストがそれぞれペアになって,作品やウェブサイトをつくりあげ,それをプレゼンテーションするというところにある.
アーティストのFatima Al QadiriとApp.netのCEOであるDalton Caldwellは,《Constant Update》という映像とサイトをつくった.この作品は,ひっきりなしに「プッシュ通知」がなり,TwitterやFacebookでステータスがアップデートし続けられる現在の情報過剰をモチーフにしたものになっている.映像を見ると,反復されるメロディーとともに聞き慣れた通知音が鳴り,印象的な言葉が表示されては消えていく.これだけの映像なのだが,通知音が映像を見ている人の多くの気持ちをざわつかせ,自分がいる「常に更新される環境」について考えされるのではないだろうか.
Rhizomeはふたりのプレゼンを「Livelog」しており,ここでも常に情報が更新されていき,ちょっと前には最新だった情報はすぐに廃れていく.情報がすぐ廃れるがゆえに,通知される情報を常に摂取し続けないといけないという恐れが生まれる.しかし,Dalton Caldwellが言うように,「友達が水を飲みたい」といったような情報のアップデートを受け取る必要があるだろうか? そういった配慮から,作品のサイト http://constantupdate.net/ は決してアップデートしない設定になっている.つまり,永遠に廃れないのである.
プレゼンの際に,レフ・マノヴィッチが「写真や映画による20世紀初期の情報爆発の方が現在のメールや通知のものより衝撃的だった」とツイートしているが,このふたつは大分異なるものだと考えられる.どちらもスルスルと私たちの無意識にいつでもどこでも訴えかけるものであるが,メールやプッシュ通知はまさに「自分」に向けてやってくる.自分の視界に予め情報が設置されているのではなく,手元にあるデバイスに情報がやってくるのである.これはやはり写真や映画とは異なる情報の伝達のあり方であろう.
誰かのもとに,その誰かに向けてくる情報.そして,それを告げる通知音.それは「電話」と似ているが,電話以上に頻繁に通知されてくるし,通知の先に「特定の誰かと話す」だけではく,Twitter,FacebookやInstagramなどなどの多様な行為がある.通知の先の行為が一義的に決定されていないことは,電話とは異なる「次は何か?」という気持ちを通知の受信者に抱かせるだろう.
この作品を見た時に,デザインハブで開催されていた( )も( )も( )展に行って,エキソニモの作品《風景2013》を思い出した.《風景2013》は複数のスマートフォンやタブレットが「プッシュ通知」し続けているという作品である(→この作品についてのエントリー:プッシュ通知|風景|2013).《風景2013》と《Constant Update》は「プッシュ通知」というモチーフが同じであることに同時代性を感じるのだが,さらにこのふたつの作品が「イメージ」を排除している点が興味深い.《風景2013》は床に置かれたスマートフォンやタブレットをそのまま使っているので通知の有無に関わらずディスプレイに「イメージ」が表示されているのであるが,それらの先にある壁には「黒枠」がつくられており,そこには「風景2013 exonemo」とあるだけで,イメージは描かれていない.《Constant Update》においても,映像には文字だけである.Fatima Al QadiriとDalton Caldwellは「情報過剰やデータへの不安を探るために恒常的なシンボルとしてのテキスト」を使っうということを述べている.この言葉の意味も含めて,現在の情報の「風景」を描いたふたつの作品から「イメージ」が抜けていることの意味は考える必要がある.
プッシュ通知という「今」を通知するだけの機能を用いた作品を「廃れない」ものにするためにテキストや「空白の風景」が選ばれているのであろうか.しかし,プッシュ通知による風景は,まさに2013年にしか現れないものかもしれない.であるならば,そこにはこの状況を示した「イメージ」を描くことが必要なのではないだろうか.いや,この「イメージ」を必要とする発想自体が,マノヴィッチが現在の状況を映画や写真の20世紀初頭と比較したことと同じ考えに縛られていると言える.と考えると,やはりこのふたつの作品とそれらが示す現在の情報がつくりだす風景は,20世紀初頭につくられ現在まで支配的であった「イメージ」重視の考え方とは異なる位置にあるのだろう.「イメージ」を見つめるのではなく,「通知」によって次の行為を速やかに行いつづけること.あるいは見ながら行為していくこと.「見つめる」から「行為」へ.それゆえに,端的な指示としての「言語」,もしくは「記号」的なものを重視するようになっているのかもしれない.
プッシュ通知という「今」を通知するだけの機能を用いた作品を「廃れない」ものにするためにテキストや「空白の風景」が選ばれているのであろうか.しかし,プッシュ通知による風景は,まさに2013年にしか現れないものかもしれない.であるならば,そこにはこの状況を示した「イメージ」を描くことが必要なのではないだろうか.いや,この「イメージ」を必要とする発想自体が,マノヴィッチが現在の状況を映画や写真の20世紀初頭と比較したことと同じ考えに縛られていると言える.と考えると,やはりこのふたつの作品とそれらが示す現在の情報がつくりだす風景は,20世紀初頭につくられ現在まで支配的であった「イメージ」重視の考え方とは異なる位置にあるのだろう.「イメージ」を見つめるのではなく,「通知」によって次の行為を速やかに行いつづけること.あるいは見ながら行為していくこと.「見つめる」から「行為」へ.それゆえに,端的な指示としての「言語」,もしくは「記号」的なものを重視するようになっているのかもしれない.