イメージという触覚|カフカ『変身』|運動能力_コメント

講義のために,以前書いたテキスト「イメージという触覚|カフカ『変身』|運動能力」を自分でコメントをつけながら読むということをした.何もないところから考えるよりも,きっかけがあるほうがやはりはかどります.ちょっと前の自分からほとんど考えが「成長」していないなということもわかってしまいますが…

これがその結果(誰でもコメント可になっています)
https://docs.google.com/document/d/1qXgtF13a2Un8udYQ173IufvdBtPGyQkMINei7c-ynz8/edit

以下はコメントの抜き出し.

僕たちはもう「100回」もの寝返りをしたのだろうか.試行錯誤の段階を超えたのだろうか.あたらしい身体になることを目指しているのだろうか.記憶の外部化だけではなく,行為の外部化も起きているのではないだろうか.行為を外部化した結果,そこにあるのはグレゴールのような「虫」の身体なのではないだろうか.「虫」は「怪物」と呼ばることになる.
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ここには「コントロールできない身体」がある.長い年月をかけて親しんできた身体を手放した結果が「コントロールできない身体」となる.ラニアーはどんなアバターでもすぐに慣れてしまうということも言っている.どちらなのだろうか.


人というのは,自分とはまったく違う,おかしな体にもすぐに慣れ,その体で仮想世界を楽しめるということがわかったのだ.では,体をどこまでおかしくしたら精神がついてゆけなくなるのだろうか.そう思ったので,手足を大きくしたり変な物を手足にしてみたり,いろいろと実験をしてみた.傑作はバーチャルロブスターだ.ロブスターは体の両脇に三本ずつ,小さな腕を持つ.人間の体にも同じような腕があれば,その動きを測定して制御すればいい.(p.325)
人間はガジェットではない:IT革命の変質とヒトの尊厳に関する提言,シャロン・ラニアー
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ポスト・ヒューマン的な観点だといえる.徐々に進行する行為のポスト・ヒューマン化.では,タッチはどうなのか? 以前から考えているように,タッチはヒトの手のカーソル/マウス化であって,ここでの「タッチ」はヒトに固有のものではない.
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ヒトにない器官への想像力をもつことが重要.自分では理解できない器官,運動能力など「わからない」というところからはじめること!
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「イメージ・オブジェクト」という概念,もしくは行為は,「イメージという触覚」で世界を探索し始めていることを示しているのかもしれない.それは確かに古くからのアートの問題であったとしても,これまでとは異なるかたちで行われていることは確かなことだと思う.
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「慣れる」→「成れる」→「遊び」をつくりだす.ここから『暇と退屈の倫理学』へと結びつけられるのかもしれない.
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2007年の重要さ.iPhoneの発表とエキソニモ《断末魔ウス》.タッチとGUIとのあいだの移行が起こり始めたこと.もしくは,GUIの身体感覚がやっと意識化することができたこと.

これがしかも「遊び」へとつながっていることが重要.ヒトは慣れるとすぐにそこでの「遊び」をつくりだす.
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家具の配置がヒトの記憶と結びついている.それは保坂和志の小説でも書かれていたこと.ヒトは単体でヒトであるのではなく,環境とともにある.ヒトの手というサイズに合わせてあるマウスなどなど.
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ヒト/ポスト・ヒューマンという対比.どちらがいいということではない.
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しかしこの状態に「慣れる」と無関心になる.「慣れる」→「成れる」という移行のあいだに「無関心」が生じて,「成れる」という現象が生じなくなるのかもしれない.

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