「↑」がヒトを試す

カフカはまず部分を書いたのだ.現実の中でそのようなことがありえるかありえないかということではなく,「言葉はこのように書く(組み合わせる)ことができる」ということを実践しているのだ.言葉をこのように組み合わせることができるということは,思考はこのようなものを作り出すことができるということでもある.もしそれが解説好きの読者に神のイメージを喚起するとしたら,神もまた思考によって ── ということは,言葉の組み合わせによって ── 作り出された「このようなもの」の一つなのかもしれない.(p.192)

カフカの異質さは外部にある対象を指し示しているわけではないことにある.ある言葉を読んだとき,読者は事前に知っている物や事をそこに安易にあてはめてはいけない.Ungeziefer は「虫」ではなく,イメージされることを拒む抽象なのだ.カフカの小説の中では空間は,ただ言葉として直列的に並べられた一次元しかない時間の連なりであって,平面の中に一挙に(つまり.見取図や組織図のように)配置することができない.(p.197)

保坂和志「小説,言葉,現実,神」in 佐々木正人編『包まれるヒト』

 以前,カフカの「変身」とインターフェイスとを絡めた文章を書いた:イメージという触角|カフカ「変身」|運動能力.これをエキソニモのカーソルをめぐる作品を考えるために,久しぶりに読み返してみた.

そして,今日,ふとしたきっかけで保坂和志の「小説,言葉,現実,神」をペラペラとめくった.カフカつながり.以前読んだときにアンダーラインを引いた文章が気になった.それが上の2つ.ここで言われていることで,エキソニモの《↑》を考えてみたくなった.

「↑」はイメージでありながら,イメージであることを拒む抽象と考えてみる.「↑をこのように組み合わせることができる」を示すことで,カーソルと向き合う私たちの思考の在り方を作り出しているのではないか.そして,その思考は《ゴットは、存在する。》とつながる.消滅も含めた「↑」の組み合わせで作り出される「ゴット」.

ディスプレイという平面に配置されるように見える「↑」.ディスプレイから離れ,空間の中に存在する「↑」を探しだす行為.空間の中に点在する「↑」と,ディスプレイ上に映し出される「↑」.これらは同じモノである.でも,本当に同じモノなのか? 

ディスプレイという平面に映った「↑」は,私たちの注意をねじ曲げるような力を持っている.それが物理空間にあるとわかると,そのねじ曲げる力はさらに強くなる.なぜなら,ディスプレイだけで完結せずに,物理空間にも注意を向けさせるから.ディスプレイ上の「↑」そのものに注意を向ける.同時に,物理空間にある「↑」にも注意がいく.ディスプレイ上の「↑」が物理空間の「↑」を指し示し,物理空間の「↑」がディスプレイ上の「↑」を指し示す.「↑」がヒトの意識をかき乱す.ヒトが「↑」を使うのではなく,「↑」がヒトを試す.

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