次の学会発表のためのメモ(8):種の間の間主観的映像とライフログ

個の間(ヒトとヒト)の間主観的映像:写真・映画.種の間(ヒトとコンピュータ)の間主観的映像:データに基づいた映像.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13351240318
It becomes possible to separate the levels of "content" (data) and interface. A number of different interfaces can be created from the same data. A new media object can be defined as one or more interfaces to multimedia database. (p.37)

Because of this ambiguity, I try to avoid using the word digital in this book. In "Principles of New Media" I showed that numerical representation is the one really crucial concept of the three. Numerical representation turns media into computer data, thus making it programmable. And this indeed changes the nature of media. (p.52)
物理的対象の重さについて考えたり語ったりするときに,その対象がもつ重さなどという存在者を想定する必要はない.同様に,人々の信念について考えたり語ったりするとき,信念という存在者がそこにあると考える必要はない.「信念の対象」や,心に現前する何か,脳の中にある何かといった役目を演じる対象を新たに発明する必要もない.そのような発明は不要である.なぜなら,心の状態を特定する手助けとしてわれわれが引き合いに出す存在者は,心理的または認識論的な役割を果たす必要がそもそもないからである.それはちょうど,数が物理的役割を果たさないのと同じである.その結果,われわれが思考主体の思考を記録するために用いる存在者の当の思考主体が知らないからといって,そこから,自分の考えていることをまさにその思考主体が知らないという結論を導き出す理由はないことになる.(p.106)

たとえばジョン・サールは,二つのまったく異なる解釈が一人の人間の同じ思想(または発話)に対して正しく与えられるということが理解不能であると見なしている.しかし本稿で進めてきた考察に照らせば,そのことは,ある人の発話の二つ以上の集合が他の人の思想や発言の内容を等しくうまく捉える,という認識を述べたものにすぎない.ちょうど,重さや温度のあいだの経験的に有意味なすべての関係が数によって無限に異なる仕方で捉えられるのと同じように,ある一人の人の複数の発話は,他の人の思想や発言がもつすべての有意味な特徴を,異なる仕方で捉えうるのである.そのようにさまざまな仕方で報告される態度や意味の実在性は,以上の事実によって脅かされはしない.(p.113)

ここから私は最後の論点へと導かれる.私は物理科学における測定と,他人の言葉や思考への内容の割り当てとを類比することを提案したが,この類比は本質的な点で不完全である.ふつうの測定の場合,われわれは関心を引く事実を記録するために数を使う.命題的態度の場合には,われわれは文や発話を使う.しかし次のちがいがある.われわれはおたがいに数のもつ性質を特定し合うことができる.数は,それが適用される対象と同様,いわばわれわれと他人の中間にある.そのことが,数が客観的だとか,対象だとかということの意味である.文の場合は,事情はそんなふうではありえない.あなたと私が,文を使って他人を解釈するのに先立って,その文の解釈に関して合意にいたることはありえない.なぜなら,そのような合意にいたる過程には,われわれが着手しようと望んでいたまさにその種類の解釈が含まれているからである.解釈に関する共通尺度を求めても意味をなさない.なぜなら相互的な解釈こそ,われわれのもつ唯一の尺度を提供するものだからである.(p.141)
主観的,間主観的,客観的 ドナルド・デイヴィドソン
データをライフログ的なものにしぼる.ヒトの行動履歴.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/13425831313
そこには,先生のおっしゃるような基礎情報学的な知見が介在しないといけないわけですね.僕は今すでに「タイプ3」,つまり生命流に近づいていくようなITの在り方の萌芽が幾つか見られると思っていて,そのひとつに「ライフログ」という言葉があります.大学等ではライフログ研究という,いわゆる工学系バリバリの研究が行われていて,フィジカル・デヴァイスをつけた人間が見る一生分の映像を数ペタバイトくらいに収め,その膨大な情報量を効率的にインデックス化する実験が行われています.またその一方で,ライフログという言葉の世俗化も起きている.どういうことかと言いますと,現在ウェブログのことをライフログと呼んでいる人々が登場しています.つまり,片方には非常に機械情報還元主義的な工学系のライフログ研究が進んでおり,もう片方ではウェブ上で勝手気ままにプログラムを組んでいるような人たちがいて,自分たちの人生(ライフ)をよりソーシャルな形で記述している.さらにその2つが融合しつつある交差点が見えつつあって,この状況は非常に興味深いですね.
生命情報論の展開:個人から生命流へ 西垣通×ドミニク・チェン:情報生態論,ドミニク・チェン
僕は,デジタル化によって不死がもたらされていく過程には,四つの段階があると考えている.一つ目は,古い素材のデジタル化.二つ目は,新たなデジタル素材の電子記憶への追加.三つ目は双方向の不死──君と全く同じように受け答えするアバターを使って,実際にやりとりする能力の実現,四つ目は,君と同じように,時間をかけて学び変化するアバターの実現だ.(p.229)

こうしたものの電子記憶をスクリーンセーバーにするとかなり楽しめる.だから,スクリーンセーバーこそが電子記憶の発展に寄与した「決定的[キラー]アプリケーション」だと僕は断言する(かなりの人が,検索機能よりも,スクリーンセーバーの方をライフログの主な目的だと考えている).(p.207)

マイクロソフト研究所のメアリー・チェルビンスキの研究室は,動作中のアプリケーションごとのキーボードとマウスの動きをもとに,コンピューターの使用時間を可視化するすばらしい方法を生み出した.自分がどれほど頻繁に作業を中断させられているか,普段の日でも,いかに多くの時間を間接的な作業に費やしているかを知って,ほぼみんなショックを受ける.将来は,このように後から可視化して,洞察力を磨けるようになるだけではない.アラートを出すとか,レポートをすぐに送ってくれるようにサイバーコンサルトをプログラムして,適切な時間管理ができるようになるだろう.(p.127)

さらに,トータルリコールは,米国内にいる情報分析者にとっても重要だ.「ガラスの箱[ガラスボックス]」と呼ばれるおもしろいプロジェクトでは,分析者が自分のPCワークステーションで行うすべてのことを記録する.具体的に言うと,画面上に表示されている動画を常時録画するだけではなく,電子メールの追跡,開いたドキュメント,キーボードとマウスの動き,ウェブサーフィン,インスタントメッセージ,コピーにペーストまでをも記録する.音声や文字でメモを取ることもできる.どのリサーチツールが分析者にとって一番役立つのかを評価するために利用できるほか,優秀な分析者としての特性を見つけ出して人に伝えていくという活用方法もあるだろう.(p.125)

電子記憶は,エピソード記憶にとって欠かせない存在になるだろう.日常生活の中で,記録しようと決めたことは何でも,自分のデバイスが取っておいてくれる.脳の記憶は,時とともに薄れたり,消えたり,混ざり合ったり,変化したりするが,デジタル記憶は不変だ.しかも,電子記憶の精緻さと来たら,無比無類だ.僕の脳の記憶では,去年,自分がサンフランシスコにいたのが正確にいつ頃だったか思い出すのにも苦労する.ところが,GPSの記録があれば,サンフランシスコの一つひとつの通りを歩いた正確な時間を呼び出せる.(p.94)
ライフログのすすめ:人生の「すべて」をデジタルに記録する!,ゴードン・ベル&ジム・ゲメル
記憶の電子的な強化の延長線上には何があるだろうか.実際の脳はストレージのように情報を格納しているのではなく,その場その場で想起情報を再構成していると推測されている.したがって記憶は常に「一人称」的であり,想起する場面がなければ記憶そのものも存在しないといえるかもしれない.一方,電子的記憶にはそのような性質(「制約」といえるかもしれない)はないので,人間の想起メカニズムを離れた電子情報独自の利用可能性が生まれてくる.たとえてみれば,通常の記憶想起が地表を歩いて一人称的に景色を観る行為だとすると,上空から世界を鳥瞰図のように見渡したり,さらには地球全体を外部から眺めたりするような経験に相当するだろう.つまり電子的な記憶のブラウジングは,空間認知における「地図」の発明に相当する可能性を持っている.(p.191)
サイバネテックアースへ:サイボーグ化する地球とその可能性,暦本純一
一方,画像以外のlifelogを考えると,もっとも汎用的で実用性も高いと思われるのが位置情報である.もし,人生の任意の時点におけるその人の居場所を正確に特定することができれば,その時刻に撮影した写真の位置も自動的に推定できる.各個人の位置履歴情報を集約することで,誰に会ったのはいつでどこであるか,などの行動履歴検索や,さらには都市や施設の動線解析や,利用パターン解析などへの適用が可能である.すべての「もの」の位置情報がわかれば「ものをなくす」ことは原理的にありえなくなる.
テクノロジーによる記憶の拡張は可能か,暦本純一
TTは,コンピュータ上でキーボードのタイピングを,一字一字の入力にかかった時間情報と共に記録誌,「変調」させながら再生するソフトウェアである.私たちは日々,数十通のeメールを読み,複数の新聞や雑誌の記事に目をとおし,恐ろしい量のスパムや広告にさらされ,そして自ら書く書類の推敲に追われる.その意味でも文字こそが「最も遍在する」メディアだといえるだろう.しかしこれらの印刷された,もしくはディスプレイに映し出された大量の言葉は,最も正しい意味で「無機質」である,高速に,大量に変換される代わりにこれらのデジタル形式で生成される言葉には,そのcurriculum vitae(生態履歴)が欠落している.手と筆によって書かれた文字が大きな価値を持つのはなんら不思議ではない.それらは,そのストロークの強さや歪み,つまり個々の固有性において,それらが書かれた物理的な状況の痕跡を湛えている.この情報の豊穣さをえられない限り,デジタル・タイプが筆跡に取って代わることはありえない.(pp.130-131)
プロクロニズムとその都市への適用について,ドミニク・チェン
ドミニク:それに近いものだと,暦本純一さんが「PlaceEngine」(http://www.placeengine.com/)のデモとして作ったマップがあって,すごく示唆的です.まだ実用化はされていないと思うけれど,例えば東京の地図がGoogle Earth上に移っていて,そこに自分の「存在確率分布マップ」がある[※15].一週間の活動の中で,みなさんは新宿に行ったり初台に行ったり渋谷に行ったり,いろいろな場所に移動しますよね.その履歴から一週間のあいだにその人がどこにいるかという,確率論的なヒートマップを作っていく.そうすると,例えば赤岩さんは「火曜日の12時08分に,××何丁目にいる可能性が一番高い」ということが分かってくる.過去のログから未来を照射するリアリティ.
バルトは<それはかつてあった>の系譜そのものを消去しているのです.<それはかつてあった>の無媒介性を機械による感光の過程へと投影することで,彼は,機械による感光という現実と情動という現実のあいだのあらゆる媒介──それによって情動を感じ,名づけ,分節化することができるようになる媒介─を消失させてしまっています.
私たちの「イメージ」を感覚・思考可能なものにしているこの系譜を消去することで,写真をあらゆる芸術から免れたままにしておくために,私たちが現代の何らかの事物を芸術として感じられるようにする諸特徴を消去すること──これは記号論の支配からイメージの享楽を解放しようとする意志が払っているかなり重い代償です.機械による感光とプンクトゥムのあいだの単純な関係が消去しているのは,実のところ,芸術の諸々のイメージ,図像の社会的諸形態,図像批判の理論的な諸手続という三つのあいだの関係の歴史全体なのです.(p.26)
イメージの運命,ジャック・ランシエール 

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