紀要論文 オリジナルからアルゴリズムとともにある「ソースへ」:常に変化していくデジタル画像を捉えるための枠組みの転換
昨年度まで非常勤でお世話になっていた名古屋芸術大学の研究紀要に「オリジナルからアルゴリズムとともにある「ソースへ」:常に変化していくデジタル画像を捉えるための枠組みの転換」という論文を書きました.自分的にはucnvさんの作品を通して「グリッチ」を扱った第3節「ソースを映し込むグリッチ」が気に入っています.
また,以下のテキストは論文でもっとも重要だけれど,もっと考えないといけないことがたくさんある第2節「アルゴリズムとともあるソース」です.
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第2節 アルゴリズムとともあるソース
ケネス・ゴールドスミスは『非創造的な書き方』で,絵を描くことにとって写真が大きな影響を与えたように,インターネットが文章を書くことの性質を変えるとしている6.その理由はコンピュータのOSが何百万行のテキストで書かれていたり,画面上の画像や音楽,そしてテキストもまた「言語」で構成されているからである7.ゴールドスミスはインターネットとともにあるテキストを論じるが,そこにはJPEG画像が正常に表示されずに文字化けすることや,シェクスピアの画像を文字列で表示させその文字を操作して画像を変形させるといった画像と文字が表裏一体となった例が数多く示されている.インターネット以前も,コンピュータが表示する画像は文字としても表示できたが,文字としても表示できる画像がこれほどまでに流通したのはインターネットによるところが大きい.複製技術のもとでテキストはテキストとして,画像は画像としてコピーされ続けたのだが,この2つの異なるメディア:テキストと画像とが密着した状態でコンピュータやスマートフォンのディスプレイに表示されている.「デジタル画像とは何か」という議論はし尽くされた感はあるが,インターネットを当たり前に使うようになりスマートフォンで画像を撮影・共有するようになった今だからこそ,ゴールドスミスが「画像」を「文字列」として表示して考察を行いあらたなテキスト論を提示したように,「文字列」としても表示される「画像」という複製技術ではあり得ない観点からデジタル画像を改めて考える必要がある.
画像は文字列になり,文字列は画像になる.ここで「画像」と「文字列」を結びつけているものはなんであろうか.画像ファイルを画像ビューア・アプリケーションで開くと「画像」になり,テキストエディタ・アプリケーションで開くと「文字列」で表示される.これらの見え方は全く似ていない.しかし,元は1つのデータである.コンピュータがつくる情報の流れのなかで,1つのデータは「信号↔データ↔文字↔画像」という複数の見え方を示す.ゴールドスミスは「バグ」として扱われていた「文字列」を1つの表現として注目した.もともと「文字列」はバグではなく,画像の別の見え方であったのだからゴールドスミスの認識は正しいのだが,ここには大きな転換がある.なぜなら「画像」を見たい人にとって,それを「文字列」で見ることは同じもののもうひとつの見え方ではなく,やはり「間違った」見え方だからである.「バグ」として認識されるものを「正しい」ものとして認識するためには考え方を変える必要がある.
メディアアーティストの藤幡正樹はコンピュータ・グラフィックスのバグ取りの作業をしていたときに「考えられるすべてのアルゴリズムが,ここでは実行可能なのだということが,はっきりしている8」として,「バグ=間違い」ではなく,バグもまた実行可能なアルゴリズムによって導き出されたひとつの表現だと見なすようなった.そして「アルゴリズミックに美のことを考えてみることによって対象の新しい領域を見ることができる9」と書く.アルゴリズミックな見方のもとでは「画像」における「バグ」と見なされていた「文字列」も実行可能なアルゴリズムが示す複数の見え方のひとつとされるのである.
だがここで問題となるのが,藤幡による「アルゴリズム中心に世界を眺める」という提案が10年以上前の「アルゴリズミック・ビューティー」と題されたエッセイに書かれていることである.藤幡の提案は未だに有効なのだろうか,それとももうすでに期限が切れてしまったのだろうか.結論から言えば,アルゴリズム的に世界を眺めることで生じる認識の変化の可能性は汲み尽くされていない.それどころか芸術の世界に限れば,藤幡の指摘自体を忘れてしまい,ベンヤミンからボードリヤールへといたる複製技術に基づいた世界の見方を更新できないままだったといえる10.しかし,コンピュータの処理能力の拡大とインターネットの一般化によって「アルゴリズムから世界を眺める」ことに多くの人が再び注目しだしている.そのひとりが「アルゴリズム」中心の世界認識によって「美」の枠組みを広げようとしている美学者の秋庭史典である.秋庭は自然計算などの科学のなかに「美」を位置づけるために人間中心のカント的枠組みの美学から「情報の流れとしての世界」を捉えるライプニッツ的枠組みの美学への移行を試みる11.そして,その移行のための道具立ての変化が「フォルムからアルゴリズムへの転換」である.
秋庭の「フォルムからアルゴリズムへの転換」はインターネットやコンピュータに限定されたものではなく,それらを含んだ世界そのものを情報の流れと捉えるものである.秋庭の考えを矮小化してしまうことになるかもしれないが,この枠組の転換をゴールドスミスが「文字化け」の例で示すようにコンピュータと向かい合うヒトが組み込まれている次々に記号が変化していく情報の流れに適用してみたい.そうすると画像と文字列は似てはいないけれども,それらはアルゴリズムという動的秩序のもとでは同じものの2つの状態として表現されていると考えることできる .このことは,秋庭による「情報の流れとしての世界」における「美」を考えるための枠組みが,コンピュータとインターネットが当たり前になった後の「画像」の性質を考える上でのスタート地点になることを示している.
そこで「フォルムの類似性」という複製技術に基づいた固定的な関係から「動的秩序を可能にする仕組みの記号による表現」であるアルゴリズムを中心にした枠組みで,コンピュータがつくりだす画像の「オリジナル」を捉え直してみたい.
コンピュータが表示する画像の「本体」とされる電子基板を流れる電子信号のパターンとディスプレイ上の画像は似ていないし,そもそも電気信号は直接見ることができない.しかし,アルゴリズムによって電気信号はデータになり,さらにディスプレイ上の画像や文字列へと状態を次々に変化させながら可視化される.ボードリヤールはシミュラークルとしての「画像は断じて,いかなる現実とも無関係13」としているが,それはアルゴリズムによってモデル化された世界での画像とテキストの関係を誤認していると考えられる.ボードリヤールは世界を抽象化したアルゴリズムの文字列と画像を「類似」という観点から捉え,それらが全く似ていないがゆえにその2つの関係を切り離し,その結果,テキストと密接に結びついた現実と画像とが全く関係ないと考えるに至ったのではないだろうか.実際のところ,アルゴリズムとともにある画像は現実との関係を一切失ってはいない.なぜなら,アルゴリズムのもとでは画像とテキストという2つの異なる状態が同一の現実を示すからである.画像とテキストは似ていないが,1つのアルゴリズムがつくる情報の流れによって結びつけられる.類似性のもとでは把握することができないが,秋庭に従って「フォルムからアルゴリズムへ」と枠組みを転換して世界を眺めると,目に見える現象からアルゴリズムに沿って行われる状態遷移の流れが見出される.そして,その流れには必ず源があり,それこそがInstagramの制作者やグロイスが「オリジナル」と呼ぶものなのである.「類似性」にもとづく認識の枠組みでは「オリジナル」を消失させたアルゴリズムが,動的秩序に基づく枠組みのもとでは「オリジナル」を復活させる.アルゴリズムによって2つの点が結ばれると,その結果として今度は「コピー」が消滅する.なぜならここでディスプレイに表示されるのはコピーではなく,アルゴリズムによってその状態を遷移させていったオリジナルだからである.そして,アルゴリズムはその規則を変えることで,オリジナルをどのような状態にでも変更することができる.情報の流れのなかでアルゴリズムとともに現れるのは常に変化し続けるオリジナルなのである.だが,「常に変化し続ける」ものを「オリジナル」と呼んでいいのだろうか.
アルゴリズムとともにあり状態遷移を繰り返すものは設定次第で「画像」にも「文字列」にもなるような不定形なものである.その不定形さはやはり「オリジナル」とは言い難い.そこで,フォルムからアルゴリズムへの枠組み転換後に見出だせる「アルゴリズムとともにあり状態遷移を繰り返す不定形なもの」を「ソース」と呼びたい.「ソース」は流れの「源」という意味であるとともに,コンピュータ用語の「ソースコード」が示す「ヒトが読むことができるコンピュータ・コマンド14」という意味や,「ソースコード」で「ソフトウェアの改良や最適化,カスタマイズ,修復などが行われること15」と密接な関係をもつ.ソースは不可視で潜在的なものではなく,ソースコードのように一定の手順を踏めば可視化されるものであり,アルゴリズムという一定の条件のもとで「改良や最適化,カスタマイズ,修復」が行われ,別の状態への移行を繰り返すものである.ソースコードはソースが文字列として表示されている1つの状態であり,ソースはより広範囲な状態を含んだものと言うことができる.そして最も重要なのは,ソースはその存在を単独で示せないということである.ソースはアルゴリズムの流れにあるときのみ現れる.つまり,ルールに基づいた少なくとも2つの状態のあいだを遷移するなかでソースは一定のかたちを示す.ソースは「源」なのだが,それはアルゴリズムという「流れ」があってはじめて姿をあらわすのである.フォルムからアルゴリズムへと転換した枠組みのもとでは,「オリジナル」及び「コピー」と呼ばれる単独の固定的な存在はなくなり,アルゴリズムとともにある「ソース」と呼ぶべき複数の状態を遷移していく存在が現れるのである.
注
6.Kenneth Goldsmith, Uncreative Writing, Columbia University Press, 2011, p.11.
7.Ibid., p.16.
8.藤幡正樹「アルゴリズミック・ビューティー」,『アートとコンピュータ───新しい美術の射程』慶應大学出版会,1999年,110頁.
9.同上書,111頁.
10.デイヴィッド・ジョゼリットは『アートの後で』のなかで,ベンヤミンの複製技術に対する考察は素晴らしいがインターネットやスマートフォンなどの現代のメディア環境には時代遅れであり,妨げになっていると指摘する.しかし,この問題はベンヤミンのせいではなく,彼よりも優れた分析をすることができないでいる私たち自身の問題だとしている.
11.秋庭史典『あたらしい美学をつくる』みすず書房,2011年,72−99頁.
12.同上書,98頁.
13.ボードリヤール,前掲書,8頁
14.Joasia Krysa and Grzesiek Sedek, Source Code, Matthew Fuller ed., Software Studies\a lexicon, MIT Press, 2008, p.237.
紀要で手に入りづらいので,PDF です(しばらくしたら名芸のhttp://www.nua.ac.jp/download/kiyou.html でページ数が入った正式なものがあげられると思います).もし興味があって,時間もたっぷりあるという人がいたら,ご利用ください.
[追記_20140812:名芸にPDFがアップされました→http://www.nua.ac.jp/kiyou/kiyou2014_2.php?file=/0002%8C%A4%8B%86%8BI%97v%91%E635%8A%AA%81i%98_%95%B6%81j/0022%90%85%96%EC%8F%9F%90m.pdf&name=%90%85%96%EC%8F%9F%90m.pdf]
[追記_20140812:名芸にPDFがアップされました→http://www.nua.ac.jp/kiyou/kiyou2014_2.php?file=/0002%8C%A4%8B%86%8BI%97v%91%E635%8A%AA%81i%98_%95%B6%81j/0022%90%85%96%EC%8F%9F%90m.pdf&name=%90%85%96%EC%8F%9F%90m.pdf]
また,以下のテキストは論文でもっとも重要だけれど,もっと考えないといけないことがたくさんある第2節「アルゴリズムとともあるソース」です.
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第2節 アルゴリズムとともあるソース
ケネス・ゴールドスミスは『非創造的な書き方』で,絵を描くことにとって写真が大きな影響を与えたように,インターネットが文章を書くことの性質を変えるとしている6.その理由はコンピュータのOSが何百万行のテキストで書かれていたり,画面上の画像や音楽,そしてテキストもまた「言語」で構成されているからである7.ゴールドスミスはインターネットとともにあるテキストを論じるが,そこにはJPEG画像が正常に表示されずに文字化けすることや,シェクスピアの画像を文字列で表示させその文字を操作して画像を変形させるといった画像と文字が表裏一体となった例が数多く示されている.インターネット以前も,コンピュータが表示する画像は文字としても表示できたが,文字としても表示できる画像がこれほどまでに流通したのはインターネットによるところが大きい.複製技術のもとでテキストはテキストとして,画像は画像としてコピーされ続けたのだが,この2つの異なるメディア:テキストと画像とが密着した状態でコンピュータやスマートフォンのディスプレイに表示されている.「デジタル画像とは何か」という議論はし尽くされた感はあるが,インターネットを当たり前に使うようになりスマートフォンで画像を撮影・共有するようになった今だからこそ,ゴールドスミスが「画像」を「文字列」として表示して考察を行いあらたなテキスト論を提示したように,「文字列」としても表示される「画像」という複製技術ではあり得ない観点からデジタル画像を改めて考える必要がある.
画像は文字列になり,文字列は画像になる.ここで「画像」と「文字列」を結びつけているものはなんであろうか.画像ファイルを画像ビューア・アプリケーションで開くと「画像」になり,テキストエディタ・アプリケーションで開くと「文字列」で表示される.これらの見え方は全く似ていない.しかし,元は1つのデータである.コンピュータがつくる情報の流れのなかで,1つのデータは「信号↔データ↔文字↔画像」という複数の見え方を示す.ゴールドスミスは「バグ」として扱われていた「文字列」を1つの表現として注目した.もともと「文字列」はバグではなく,画像の別の見え方であったのだからゴールドスミスの認識は正しいのだが,ここには大きな転換がある.なぜなら「画像」を見たい人にとって,それを「文字列」で見ることは同じもののもうひとつの見え方ではなく,やはり「間違った」見え方だからである.「バグ」として認識されるものを「正しい」ものとして認識するためには考え方を変える必要がある.
メディアアーティストの藤幡正樹はコンピュータ・グラフィックスのバグ取りの作業をしていたときに「考えられるすべてのアルゴリズムが,ここでは実行可能なのだということが,はっきりしている8」として,「バグ=間違い」ではなく,バグもまた実行可能なアルゴリズムによって導き出されたひとつの表現だと見なすようなった.そして「アルゴリズミックに美のことを考えてみることによって対象の新しい領域を見ることができる9」と書く.アルゴリズミックな見方のもとでは「画像」における「バグ」と見なされていた「文字列」も実行可能なアルゴリズムが示す複数の見え方のひとつとされるのである.
だがここで問題となるのが,藤幡による「アルゴリズム中心に世界を眺める」という提案が10年以上前の「アルゴリズミック・ビューティー」と題されたエッセイに書かれていることである.藤幡の提案は未だに有効なのだろうか,それとももうすでに期限が切れてしまったのだろうか.結論から言えば,アルゴリズム的に世界を眺めることで生じる認識の変化の可能性は汲み尽くされていない.それどころか芸術の世界に限れば,藤幡の指摘自体を忘れてしまい,ベンヤミンからボードリヤールへといたる複製技術に基づいた世界の見方を更新できないままだったといえる10.しかし,コンピュータの処理能力の拡大とインターネットの一般化によって「アルゴリズムから世界を眺める」ことに多くの人が再び注目しだしている.そのひとりが「アルゴリズム」中心の世界認識によって「美」の枠組みを広げようとしている美学者の秋庭史典である.秋庭は自然計算などの科学のなかに「美」を位置づけるために人間中心のカント的枠組みの美学から「情報の流れとしての世界」を捉えるライプニッツ的枠組みの美学への移行を試みる11.そして,その移行のための道具立ての変化が「フォルムからアルゴリズムへの転換」である.
ここには,道具立ての大きな変化があるのです.それは,フォルムの類似性による分類判断を基にしたカント的枠組みから,動的秩序を可能にする仕組みの記号による表現とその探求というまったく別の枠組みへの転換,一言で言えば,フォルムからアルゴリズムへの転換なのです12.
秋庭の「フォルムからアルゴリズムへの転換」はインターネットやコンピュータに限定されたものではなく,それらを含んだ世界そのものを情報の流れと捉えるものである.秋庭の考えを矮小化してしまうことになるかもしれないが,この枠組の転換をゴールドスミスが「文字化け」の例で示すようにコンピュータと向かい合うヒトが組み込まれている次々に記号が変化していく情報の流れに適用してみたい.そうすると画像と文字列は似てはいないけれども,それらはアルゴリズムという動的秩序のもとでは同じものの2つの状態として表現されていると考えることできる .このことは,秋庭による「情報の流れとしての世界」における「美」を考えるための枠組みが,コンピュータとインターネットが当たり前になった後の「画像」の性質を考える上でのスタート地点になることを示している.
そこで「フォルムの類似性」という複製技術に基づいた固定的な関係から「動的秩序を可能にする仕組みの記号による表現」であるアルゴリズムを中心にした枠組みで,コンピュータがつくりだす画像の「オリジナル」を捉え直してみたい.
コンピュータが表示する画像の「本体」とされる電子基板を流れる電子信号のパターンとディスプレイ上の画像は似ていないし,そもそも電気信号は直接見ることができない.しかし,アルゴリズムによって電気信号はデータになり,さらにディスプレイ上の画像や文字列へと状態を次々に変化させながら可視化される.ボードリヤールはシミュラークルとしての「画像は断じて,いかなる現実とも無関係13」としているが,それはアルゴリズムによってモデル化された世界での画像とテキストの関係を誤認していると考えられる.ボードリヤールは世界を抽象化したアルゴリズムの文字列と画像を「類似」という観点から捉え,それらが全く似ていないがゆえにその2つの関係を切り離し,その結果,テキストと密接に結びついた現実と画像とが全く関係ないと考えるに至ったのではないだろうか.実際のところ,アルゴリズムとともにある画像は現実との関係を一切失ってはいない.なぜなら,アルゴリズムのもとでは画像とテキストという2つの異なる状態が同一の現実を示すからである.画像とテキストは似ていないが,1つのアルゴリズムがつくる情報の流れによって結びつけられる.類似性のもとでは把握することができないが,秋庭に従って「フォルムからアルゴリズムへ」と枠組みを転換して世界を眺めると,目に見える現象からアルゴリズムに沿って行われる状態遷移の流れが見出される.そして,その流れには必ず源があり,それこそがInstagramの制作者やグロイスが「オリジナル」と呼ぶものなのである.「類似性」にもとづく認識の枠組みでは「オリジナル」を消失させたアルゴリズムが,動的秩序に基づく枠組みのもとでは「オリジナル」を復活させる.アルゴリズムによって2つの点が結ばれると,その結果として今度は「コピー」が消滅する.なぜならここでディスプレイに表示されるのはコピーではなく,アルゴリズムによってその状態を遷移させていったオリジナルだからである.そして,アルゴリズムはその規則を変えることで,オリジナルをどのような状態にでも変更することができる.情報の流れのなかでアルゴリズムとともに現れるのは常に変化し続けるオリジナルなのである.だが,「常に変化し続ける」ものを「オリジナル」と呼んでいいのだろうか.
アルゴリズムとともにあり状態遷移を繰り返すものは設定次第で「画像」にも「文字列」にもなるような不定形なものである.その不定形さはやはり「オリジナル」とは言い難い.そこで,フォルムからアルゴリズムへの枠組み転換後に見出だせる「アルゴリズムとともにあり状態遷移を繰り返す不定形なもの」を「ソース」と呼びたい.「ソース」は流れの「源」という意味であるとともに,コンピュータ用語の「ソースコード」が示す「ヒトが読むことができるコンピュータ・コマンド14」という意味や,「ソースコード」で「ソフトウェアの改良や最適化,カスタマイズ,修復などが行われること15」と密接な関係をもつ.ソースは不可視で潜在的なものではなく,ソースコードのように一定の手順を踏めば可視化されるものであり,アルゴリズムという一定の条件のもとで「改良や最適化,カスタマイズ,修復」が行われ,別の状態への移行を繰り返すものである.ソースコードはソースが文字列として表示されている1つの状態であり,ソースはより広範囲な状態を含んだものと言うことができる.そして最も重要なのは,ソースはその存在を単独で示せないということである.ソースはアルゴリズムの流れにあるときのみ現れる.つまり,ルールに基づいた少なくとも2つの状態のあいだを遷移するなかでソースは一定のかたちを示す.ソースは「源」なのだが,それはアルゴリズムという「流れ」があってはじめて姿をあらわすのである.フォルムからアルゴリズムへと転換した枠組みのもとでは,「オリジナル」及び「コピー」と呼ばれる単独の固定的な存在はなくなり,アルゴリズムとともにある「ソース」と呼ぶべき複数の状態を遷移していく存在が現れるのである.
注
6.Kenneth Goldsmith, Uncreative Writing, Columbia University Press, 2011, p.11.
7.Ibid., p.16.
8.藤幡正樹「アルゴリズミック・ビューティー」,『アートとコンピュータ───新しい美術の射程』慶應大学出版会,1999年,110頁.
9.同上書,111頁.
10.デイヴィッド・ジョゼリットは『アートの後で』のなかで,ベンヤミンの複製技術に対する考察は素晴らしいがインターネットやスマートフォンなどの現代のメディア環境には時代遅れであり,妨げになっていると指摘する.しかし,この問題はベンヤミンのせいではなく,彼よりも優れた分析をすることができないでいる私たち自身の問題だとしている.
11.秋庭史典『あたらしい美学をつくる』みすず書房,2011年,72−99頁.
12.同上書,98頁.
13.ボードリヤール,前掲書,8頁
14.Joasia Krysa and Grzesiek Sedek, Source Code, Matthew Fuller ed., Software Studies\a lexicon, MIT Press, 2008, p.237.