ユーザ・インターフェイスとメディアアートのあいだを考えるために、帰省のバスの中で書いたメモ
ユーザ・インターフェイスとメディアアートのあいだ
ユーザ・インターフェイスとメディアアートのあいだで考えていく。コンピュータという新しい対象とヒトとのあいだにどのようにコミュニケーションが生まれていくのか? それは、新しい関係を作っていくこと。
ユーザ・インターフェイスがヒトとコンピュータとの関係を一般化する。一般化された関係を、メディアアートが批判していく。そこから、新しいユーザ・インターフェイスが生まれていくとひとつのサイクルができるのだけれど、今までそんなことは起きていなかったのではないだろうか? では、なぜ起きなかったのだろうか?
ユーザ・インターフェイスもそれまでの技術への批判から生まれたものであるから、メディアアートからの批判を必要としていないのかもしれない。
メディアアートからの批判が、抽象的すぎるのかもしれない。メディアアートはそもそもコンピュータというメディアを批判しているのであって、ユーザ・インターフェイスを批判しているのではないかもしれない。
メディアアートからの批判が、サザーランド、エンゲルバート、ケイらコンピュータのパイオニアの思想に追いついていないのかもしれない。
ユーザ・インターフェイスとメディアアートのあいだで考えていくために、今の自分には、メディアアートの歴史が欠けている。まず、この部分を補強しなければならない。
ユーザ・インターフェイスとメディアアートのあいだで考えていく。コンピュータという新しい対象とヒトとのあいだにどのようにコミュニケーションが生まれていくのか? それは、新しい関係を作っていくこと。
ユーザ・インターフェイスがヒトとコンピュータとの関係を一般化する。一般化された関係を、メディアアートが批判していく。そこから、新しいユーザ・インターフェイスが生まれていくとひとつのサイクルができるのだけれど、今までそんなことは起きていなかったのではないだろうか? では、なぜ起きなかったのだろうか?
ユーザ・インターフェイスもそれまでの技術への批判から生まれたものであるから、メディアアートからの批判を必要としていないのかもしれない。
メディアアートからの批判が、抽象的すぎるのかもしれない。メディアアートはそもそもコンピュータというメディアを批判しているのであって、ユーザ・インターフェイスを批判しているのではないかもしれない。
メディアアートからの批判が、サザーランド、エンゲルバート、ケイらコンピュータのパイオニアの思想に追いついていないのかもしれない。
ユーザ・インターフェイスとメディアアートのあいだで考えていくために、今の自分には、メディアアートの歴史が欠けている。まず、この部分を補強しなければならない。