研究者として以前より「自由になった」という感覚があります

ま:私は,メディアアートの歴史を,より大きい歴史と接続させると同時に美術史のなかで批評的に位置づける作業を自分の課題として考えています.そのため,特定の場を中心とする,括弧付きのメディアアートという分野を乗り越えた広がりを見せている,クワクボさんの活動に感謝しています.いちいち起源まで遡らなくても,今日のアーティストを通して語られる部分が増えてきたからです.わかりにくい言い方ですが,切実な感覚なのでこういうしかありませんが,研究者として以前より「自由になった」という感覚があります.クワクボさんは,以前よりアーティストとして自由になりましたでしょうか?(p.87)
クワクボリョウタ准教授インタビュー クワクボリョウタ,馬定延(聞き手)

情報科学芸術大学院大学紀要 第5巻・2013年に載っているメディアアート研究者の馬定延さんによるアーティストのクワクボリョウタさん のインタビュー(このインタビューのテキスト,クワクボさんが「く」,馬さんが「ま」と表記されていて,そこにどこか馬さんらしさを感じる).このインタビューを読むとクワクボさんの作品の変遷がよくわかって,とても勉強になるので,僕もいつかこういったインタビューをエキソニモをはじめ,今いっしょに様々な領域で表現を考えている人にしてみたい.

そんななかで,一番グッときたのが上に引用した馬さんの言葉.メディアアートやネットアートを超えて,それらをより広い文脈で位置づけていくこと.馬さんは博論で日本におけるメディアアートの歴史をこれまでと異なった視点で批判的にまとめてきたからこそ,「メディアアート」という言葉がもつ特有の意味・場所性の限界をよく知っていると思う.だからこそ,この言葉はとても説得力がある.

僕は大学院の修士過程では「メディアアート」を研究していたけれど,博士課程は所属した研究科の関係で「ユーザ・インターフェイス」の研究をすることになった.そしてその後,エキソニモの作品に遭遇してメディアアートやネットアート(ネット上の表現)の研究に再び入り込むことになった.「エキソニモの作品に「遭遇」した」と書いたけれど,正確に言うと「再遭遇」,修士のときにも遭遇していたけれど,そのときは「インターフェイス」を経由していなかったのでスルーしていた.このことが示すように,僕はメディアアートの歴史そのものと向き合って,今の状況にあるのではなく,一度インターフェイスという横道にそれている.自分にとって,それはとても良かったことだと思う.けれど,馬さんの言葉を読むと,自分には馬さんのような「切実さ」があるのかと自問したくなる.

自問すると,馬さんとは異なるかたちで僕にも「切実さ」はあると思った.メディアアートの歴史をより広い文脈に位置づけるというものではなく,「メディアアートというかネット上の表現の今現在の状況を書き記していかなくてはならいないぞ」という「切実さ」はある.クワクボさんとの出会い・対話によって馬さんが「自由になった」ように,僕もエキソニモやインターネット・リアリティ研究会との出会い・対話によって,研究者として「自由になった」.だからこそ,その「自由になった」ことをどんどん活かしていかなくてはならないと思う.

馬さんは博論の『日本におけるメディアアートの形成と発展』を近々刊行するみたいなので,僕もテキストを書きためて本を出したい!

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