GIFとの遭遇:ザ・ブルー・マーブルとearth.gif

昨日,やっとGIFについての論文を書き終えました.タイトルは「GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメ化された世界」.「GIFとの遭遇」の部分は「未知との遭遇」から.

最初はヴァルター・ベンヤミンやロザリンド・クラウスの「視覚的無意識」やロジェ・カイヨワの「擬態」という言葉を使って,「GIFになる」ということを書こうとしていたのですが,どうもちがう感じがして,最後は「選択的認識」という言葉を作って,それについて考えました.そのときに,参考にしたのは,センボーのブログの「コンピュータ 記憶 シンクロ」とHGWのBLANKの「保存について」でした.そうしたら,パーカー・イトーのテキストも参考になって,GIFの話というよりも「ポスト・インターネット」的状況におけるヒトとコンピュータとの認識についてのテキストになっていたような感じがします.「GIFとの遭遇」が認識の変化をさぐるきっかけになっているような感じ.

「選択的認識」というのは,iPhoneとかで解像度を気にすることなく次々に写真をとって,どんどんいろんなサービスにデータをアップしていくようなものと考えました.ここでは写真を撮影することも「選択」された行為だし,そのあとどのサービスにあげるかも「選択」される必要があるわけで,常に「選択」が行われていて選択されなかったものは,そこに存在しもしないような認識.

じゃ,「選択的認識」とGIFがどう関係しているかというと,それはGIFがディスプレイ平面から引き離すことができない画像というところです.「選択的認識」はディスプレイ経由で起るので,ディスプレイ・ネイティブの画像形式としてのGIFが最もその特徴を表して,ヒトとコンピュータとを同じ認識のもとに巻き込んでいるのかなと考えました.論文を出してしまった後ですが,今ここに書いていることのほうが,いい説明になっているのではないかと思います.このあたりはもっと考える必要があります.

ザ・ブルー・マーブル

earth.gif

「選択的認識」で言いたかったことは,高解像度の認識をするのではなくて,低解像度の認識をできるだけ多く行なっていくという方向性もありなのかなということだと思います.今までは「高解像度の世界=ザ・ブルー・マーブル」だったけれど,膨大な低解像度の認識がヒトとコンピュータとのあいだのズレを埋めていって,その先に「低解像度のデフォルメされた世界=earth.gif」が現われるというイメージです.


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