インターネット インターフェイス あれから つづき
そもそもインターネット体験ってなんなのだろう? インターフェイスの問題なのかなと思う.インターネットの向こうで,犬がコンピュータに向かっていても気づかないということがあったけれど,犬の前足ではキーボードは押せないのではと思うわけです.ヒトの身体にあわせたマウスとキーボードというインターフェイスと,向かい合うディスプレイの大きさが「インターネット」という体験を決めていた.
surfing with the sand between my toes (after brian wilson) sandbox, mac pro, desk and chair in livingroom , 2010 |
今は,スマホによるインターフェイスの変化があるから,インターネットも変化していく.OFFLINE ART: new2 Parisで印象的だったのは,みんながスマホ片手に作品の鑑賞しているところ.これが今のネット体験のひとつってことなんですよね.机の上においたパソコンでも,膝の上においたノートブックでもなく,片手に持ったスマホからのインターネット体験.もちろん,パソコン,ノートパソコンでもインターネット体験できるけど,ここ5年くらいの変化.小さな画面を見つめながら,ネットを体験する.「体験」という言葉もしっくりこない.ただディスプレイを見ている.テレビのように見ている感じになっているけど,そのとき顔は下を向いている.このちょっとした違い.
「この8年間で激変したこと…」新ローマ法王の選出でわかる比較写真 |
これを書いている時に「連鎖」という言葉が気になってきて,そのときたまたま読んだのがウェブデザイナーの萩原俊矢さんが谷口暁彦さんの個展「思い過ごすものたち」について書かれたブログ記事「思い過ごすものたち」のこの部分.
現実の空間はインターネットよりも圧倒的に高解像度でいろんなものが絶えず関連しているけれど,そこにあえてiPadとかラップとかわざとらしくオブジェクトを配置することで,うまくネットワークをつくっているなぁ、と.
こうした「現実」のつなぎ方というか,現実のなかでiPadとかのディスプレイ,それは人間の眼ではピクセルを認識できないような高精細な「レティーナ(網膜)ディスプレイ」と言われているけど,やはりそれはディスプレイに表示された部分で解像度が落ちるというか,別のものに変わる部分があるような気がします.そして,そこに解像度の違いあるにも関わらず,それでも結びつきをもつ「ネットワーク」が生じてしまう.解像度の違いがあっても,そこに「ネットワーク」があると感じてしまう感覚があるといったほうが,自分が書いた出来るだけ多くの低解像度の認識を行うとした「選択的認識」と言えるかもしれない.
Brad Troemelによって書かれた「The Accidental Audience」には,文脈を意識することなく,それをアートの作品として意識することなく,作品に出会うことがTumblrで起きているということが書かれています.また,日常の視覚情報の多さがアートとそれ以外のあいだにあった「不気味な谷」を埋めてしまった,ということも指摘されていて,面白いなと.Tumblrにおいても「選択的認識」が起こっていて,それは文脈を考えて眼の前のものをみるのではないという意味で低解像度なものであり,眼の前のものだけを見る,それだけを見るという「限定」という感じなのかもしれない.
またインターフェイスとの絡みで「文脈抜け」を考えてみると,Brad Troemelが書いているようにリブログのなかで「ソース」が抜けてしまうこともあると思うのですが,TumblrをiPhoneで見ていたら,親指でどんどんスクロールして見ていることが多くなるわけで,そのときに文脈とかをいちいち考えるよりも,スクロールの方が気持ちいいよなと,どんどん流れていく画像が気持よくて,そのなかで「オオォォォ」というものだけリブログしていくという感じには「文脈」は入ってこないよなとも思う.
こういったことを考えながら,今日の18時からのインターネットリアリティ研究会による座談会 [インターネット アート あれから つづき]に臨みたいと思います.こちらはWeb中継のみで会場のオープンはありません.USTREAMで見られます.