[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_04

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「《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」」に対して,自分でツッコミを入れる→こちら

ツッコミを入れつつ,インターネットを「理念」ではなく「生活」レベルで改めて考えることが「ポスト・インターネット」なのではないかということを考えた.そして,今回の展示は「生活」レベルのなかでの「理念」の部分を扱っていたのかということも考えた.これは,トークのなかでドミニク・チェンさんが「モバゲーは扱わないのか」という問いで示していたこととも通じると思う(いや,「理念」というものではなく,扱う対象の違いというだけのような気もする).

ICCを作り上げてきた人たちは,インターネットを「理念」として考えてきた.けれど,それが当たり前になったときに,改めてネットを考えると「理念」とはズレた存在になっている.だから,「いや,違ったよねー」という感じで,頭を掻きながら,改めて考えてみようという感じで,インターネットを再び考えるという姿勢をもつこと.それはICCが行なってきたこれまでの展示,特に「電話網のなかの見えないミュージアム」と「アート.ビットコレクション」との対比が必要と感じた.と同時に,ICCで展示を行なっていること自体が再び「理念」になって,生活のなかのネット(モバゲーなど [ここで「など」と書いている時点でズレている])とはズレているということも,頭を掻きながら,「いやー,ズレているかもしれないねー」という感じで考えないといけない.

さらに,《ゴット・イズ・デット》の方で「ヒトにとってネットは本質的に何が起こるかわからない「不穏」な存在なのではないだろうか」というところに
とりあえず「今のところは」というべきか.いずれは,ある程度は予測できるという「現実」に近いものになる.
いや,ネットのほうがすべて「作り物」なのだから,より予測できるはずというか,今でもそうなのか,ということになるけれども,アトムにはアトムの,ビットにはビットの法則があるとすると,アトムに属しているヒトには,ビットの法則はわからないまま,少しづつ,それに従っていくしかないということかもしれない.
というコメントを書いているときに思い出して,脳内で参照していたのが,「ビット知らずと世間知らず - アンカテ」というテキストだった.ここにはファーストサーバ社のデータ消去に関連して,データを偏執狂的にバックアップするアダルトサーバ屋のことを書いてあって,

上記の「アダルトサーバー屋」さんのように,偏執的にバックアップにこだわる人がリアリストだ.ビットはビットの法則で動き、人間がそれに適応するしかないことをよくわかっている.
ビットの法則を内面化し,同期することが「ポスト・インターネット」を構成するひとつの要素と思いつつも,ここで考えが止まっている.「単体|群体」はどこに行ったのかと,考えが止まっている. 

考えが止まったので,別のメモをコピペしてみる.

tumblrとGIF
tumblr:フローとストックーリブログ
GIF:動画と静止画ーループ
同期ー回帰ーRT

tumblrのiOSアプリではGIFは[GIF]ボタンを押さないと動かない
→[再生]ボタンではない:動画との区別
[GIF]ボタンーオブジェクトとしてのGIF:[GIFボタン]を押しているときの質感を考える
勝手に再生ではない:インタラクションあり

このあたりにも「ビットの法則」を見ることができるのだろうか.

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