[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_05
講義やらなんやらで忙しくしていたら,頭の中から「インターネット・リアリティ」がどこかに飛んでしまっていた.頭の中からインターネット・リアリティが抜け出ていた.いや,そんなときにでもインターネットを使っているわけだから,リアリティのなかにいたわけだけれど,今改めて,そのリアリティの手触りみたいなことを考えようとすると,考えが進まない.
インターネット・リアリティのなかにいながら,そのリアリティのことを特に考えることをしなかったときのインターネットのことを今改めて考えてみたいのであるが,それが難しい.どこか言葉がインターネットを追い切れない.もともと追い切れていたわけではないけれど,今は全くと言ってほどインターネットのリアリティが遠い.
リハビリのためにインターネット・リアリティへの自分の感覚をだらだらと書いているけれど,自分のなかで意識が変わっていくということが,今のところない.なので,他の人の力を借りてみる.
情報美学概論が終わった後にふたりの学生さんと話していたときに印象に残った言葉をあとでメモったもの:
インターネット・リアリティのなかにいながら,そのリアリティのことを特に考えることをしなかったときのインターネットのことを今改めて考えてみたいのであるが,それが難しい.どこか言葉がインターネットを追い切れない.もともと追い切れていたわけではないけれど,今は全くと言ってほどインターネットのリアリティが遠い.
リハビリのためにインターネット・リアリティへの自分の感覚をだらだらと書いているけれど,自分のなかで意識が変わっていくということが,今のところない.なので,他の人の力を借りてみる.
情報美学概論が終わった後にふたりの学生さんと話していたときに印象に残った言葉をあとでメモったもの:
JEPGは敵,群体は危険.コンピュータのなかに身体を見てしまう.Googleグラフィティのなかのヒトの精神状態は,コンピュータのなかに入ってしまっている.ネットアートはあそび,ニコニコ動画のMADやニコ生に比べると豊か,余裕がある.客観視する余裕ということ.彼と彼女の言葉を頷きながら聞いていた.と書いても,このあとに何かを書くことができないでいる.一度離れた「インターネット・リアリティ」をまた手元に引き寄せるのは難しい.常にそのリアリティのなかにいるからこそ難しい.