メモ:「行為なき身体」=カーソル(?)

この前ふと,マウスとカーソルのつながりの不自由さこそが,「コンピュータの身体性」なのではないかと思った.

マウスとカーソルとのつながりは,常に画面上の一点を指さなければならないという不自由さをヒトに与える.私たちはそれを不自由だと思ってきたのだけれど,コンピュータにしてみれば逆に,それが一番よい行為と出来事との組み合わせではなかったのではないだろうか.ジェスチャーを行っているときの所在なさげなカーソルは何も機能を果たしていないにも拘わらず,画面上に留まる.この所在なさげなカーソルは,ヒトがコンピュータに対して,ジェスチャーという新しい行為をすることで生まれている.ジェスチャーは,コンピュータに対するヒトの行為を,マウスとカーソルとのつながりから解放した.けれど,コンピュータにとっては,意味も無く画面を漂う時間をもつカーソルを生み出してしまった.
(このことは以前,「機能不全」を体現するカーソルで書いた)

ある一点に注意を向けるさせることが,「コンピュータの身体性」を形成していると考えてみる.常にある一点に意識を集中させることで,周縁がなくなりすべてが中心になる.同時に,常にある一点に意識を集中させていることで,その瞬間瞬間に周縁が生まれている.コンピュータが自ら行為することができず,ヒトの行為を誘い出して新たな出来事を生じさせていると考えるならば,「次,次,次,次...」と行為を要求してくるカーソルは,「コンピュータが「行為なき身体」という言葉で示すことができる性質を持つことを体現しているのだろうか.

しかし,エキソニモの《断末魔ウス》では,カーソルそれ自体がハックされる.このときのカーソルは私たちに次の行為を要求しない.ただ,過去の出来事の記録して画面上に映し出されている.また,エキソニモが東京藝術大学で行った講義の際のパフォーマンスの記録映像を見ると,カーソルはリアルタイムに制御されている.このときは,カーソル自体が行為を行っていると考えることもできる.ということは,カーソルはここでは「行為なき身体」を体現していない.もともと「コンピュータの身体性」とは,「行為なき身体」という言葉では表すことができないということなのか.ヒトと接しているときに,ヒトにとって有効に機能しているときには,「行為なき身体」という言葉をカーソルやコンピュータに割り当てることはできるかもしれないが,それ以外のときにはまた別の在り方があるのかもしれない.



人間が理解するのは座標ではなく場所だ.しかもGoogleは,検索や地図など既存のサービスを通じてほかのどの企業よりも大規模な場所データベースをたまたま持ってしまった.そしてGoogleは、Buzzでそれの利用を開始した. 
http://jp.techcrunch.com/archives/20100308google-buzz-location-facebook-twitter/ 
だいぶ古い記事だが,これを書いているときに思いだした「人間が理解するのは座標ではなくてなく場所だ」というフレーズ.この人間の空間理解の仕方がカーソルの理解,そして,「コンピュータの身体性」を理解するのを大きく邪魔をしているような気がする.この考えを捨て去るとは言わなくても,少し脇にどけてカーソルを考える必要があるのかもしれない.

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