アニメーションとカーソルを考えるためのメモ

「押す」行為に対して変化しないカーソルについて書いて(→カーソルが示すひとつの切断),そのあとこう考えた.
カーソルが画面上の「ボタン」を押したときに、何も変化するを示さないように、タッチパネルで「ボタン」を「押した」ときの指も変化をしめさない(実際には、押していないから、触れているだけだから).画面上でアニメーションがあるところと、ないところと、ヒトの身体との関係.アニメーションのある/なしと「コンピュータの身体性」との関係.
http://mmmemo.posterous.com/32483046
これを書いたのは,Twitterで次のようなツイートが流れてきたことが影響している.最初のは,デザイナーの原研哉さん,ふたつ目は,坂本大介さんと渡邊恵太さんが行っている「インタラクションデザイン研究会」の第三回目で,渡邊さんが言ったことをLunarModule7さんが書き取ってくれたもの.
タッチパネルの感触はガラスの感触ではない.インタラクションの様相がそこに全く新しい「触覚」を育むだろう.ボタンに触って「にゃ〜」とゆっくり反応するのと、「ピッ」と電子音で鋭く反応するのでは、脳が感じる触覚が異なる.
http://twitter.com/haraken_tokyo/status/29654770743
渡辺:iPhoneと身体性の例.iPhoneのアニメーションは身体性と大きく関連している.滑らかに動くことがカーソルの役割をしている.こうした滑らかなアニメーションがどうして重要なのか? そうした製品が見られるようになってきたが,エフェクトでは駄目. #sigixd
https://twitter.com/lunarmodule7/status/29546365253
「滑らかに動くことがカーソルの役割をしている」という渡邊さんの言葉は,今後カーソルを考えていく上で,とても重要なヒントだと思う.まだ,うまく言葉にすることはできないけれど…….

カーソルがヒトの行為を示すものではなく,ただ単に注意を引きつけるものだと考えるとすれば,滑らかなアニメーションがカーソルになると考えることができるのではないか.しかし,カーソルの示す先というある一点に注意を集中することと,滑らかなアニメーションが示すような注意の先が一点に収斂するのではなく,漠然とひろがっているような状態とでは,やはり感覚が異なる.漠然と注意を向けている方が,現実での生活感覚に近い.だからこそ,カーソルは「コンピュータの身体性」を強く示しているとも言えるのではないか?

また,「コンピュータの身体性」は,コンピュータ自体が作り上げるものではなくて,ヒトの注意が形成するものではないか? だとすれば,漠然とした注意の先には今までは異なる「コンピュータの身体性」が現れるかもしれない.そうすると, ヒトの注意がコンピュータの身体性を作り替えると共に,原さんが言っているように自らの感覚も変えていくのかもしれない.

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