カーソルが示すひとつの切断



カーソルは画面上の「ボタン」を押す.そのとき,押された「ボタン」は,押されたことを示すアニメーションが付与される.それに対して,カーソルは何も変わらない.マウスのクリック音や,「ボタン」のアニメーションで「押す」という感覚をユーザに与えようとしているにもかかわらず,「ボタン」を押しているカーソルは何も変化を示さない.

指でボタンを押すときは,ボタンも押される,押している指にも変化がある.カーソルが手の延長として画面上にあるとすれば,イメージとして表示されている「ボタン」を押したときに,カーソルにも変化があるべきなのに,「↑」のイメージには何の変化:アニメーションも与えられない.それでも,私たちは「ボタン」の変化だけで「押した」ことを認識する.カーソルは指の延長ではあるが,現実の指と同じ変化は示さない.なぜなのであろうか.カーソルに押したことを示すアニメーションをつけることは難しいことなのだろうか.難しくないとすれば,なぜつけないのか? 「ボタン」の変化とともにカーソルにもアニメーションをつければ,より「押した」感じがでるのではないだろうか? だが,今までのところ,カーソルにはアニメーションが与えられていない.それは必要ないと,どこかで判断されているのであろう.

ヒトが「触れる」対象についてはアニメーションが与えられるが,ヒトの手の延長として機能するカーソルにはアニメーションが与えられない.これは「コンピュータの身体性」に関係することかもしれない.ヒトはカーソルを手の延長として考えているが,コンピュータはその関係をボタンを押すという行為の最終段階で切断しているのではないだろうか.もちろん手そのものがディスプレイに入り込むことはないのだけれど,カーソルに「押す」ことのアニメーションを与えないことで,コンピュータは手がディスプレイに入り込むことを阻止しているのではないだろうか.コンピュータはカーソルにアニメーションを与えないことで,それがヒトの手の延長ではなく,あくまでも「コンピュータの身体」であることを示しているのではないだろうか.

しかし,カーソルにアニメーションを与えないことを判断しているのは,コンピュータではなく,ヒトである.ヒトはカーソルを手の延長として作りながら,最後の最後で自らの身体とカーソルを切断していると考えることもできるかもしれない.

このブログの人気の投稿

MASSAGE連載12_ディスプレイなきディスプレイ場/ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

札幌国際芸術祭のメモ:松江泰治とラファエル・ローゼンダール

MASSAGE連載09_小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる

カーソルについての講義のコメントに対するコメント

スライド:映像文化 第4回|テレビ:同じ時間にみんなで見るから,共有の場へ

告知:第4回新視覚芸術研究会「デジタル時代の次元の折り重なり」【追記_2017/08/08】

《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」

メモ:台風→情報の流れ→GIF→複合体としての主観