18:15前後にICC下の喫茶店で書いた「ソーシャル麻婆豆腐」についてのメモ
18:15@ICC下の喫茶店で書いた「ソーシャル麻婆豆腐」についてのメモ.会場で書いたメモをもとに殴り書きのようにキーボードを叩き続けたものです.誤字脱字,ですます・である調の混乱などなんでもありです.
これから,「陳さんの麻婆豆腐を味わいながら「ソーシャル麻婆豆腐」について思索するクロージングイベント」にいって「ソーシャル麻婆豆腐」について考えて,それをもとに下のテキストを修正していこうと思っています.
−−
デジタルの枠組みのなかでのテキストのありかたを「メタファー」と「リテラル」で考えていました.そんな中,ソーシャル麻婆豆腐を見に行ったわけですが,これがまた「メタファー」でもあり「リテラル」というか,私はこの2つの言葉とどこか視覚的表現を前提として考えいたところがありました.ライダー・リップスのポエトリーシリーズにしても,テキストが表示されている「場」としての視覚的表現・インターフェイスが前提になっていると思っていたということ.言葉とイメージとのあいだをどう規定するのか,その部分に「メタファー」と「リテラル」があると考えていたらしい.そんな前提をIDPWはぶっ飛ばしてくれたわけです.
展示会場にあるのはキャプションと音声解説用のiPodが2台.キャプションの前にたって音声解説を聞く.とてもシンプルな体験.脳内に拡がる「ソーシャル麻婆豆腐」.ソーシャル麻婆豆腐は文字通りにとればどこにもないけど,NHK福岡の女性アナウンサーの心地よい声で読み上げられるテキストのなかには「ソーシャル麻婆豆腐」がある,というか,「ここに,あそこに,そこに,どこかに,ソーシャル麻婆豆腐があるんだ」と想像できてしまう.いや,ソーシャル麻婆豆腐はあったのかもしれない,いや,ソーシャル麻婆豆腐はこれから生まれるのかもしれない,いやいや今目の目にソーシャル麻婆豆腐が生まれつつあるのかもしれない,ソーシャル麻婆豆腐は時世も撹乱しながら,テキストを聞いているときにはあって,それについて考えつつ展示会場にいるあいだにもあって,けど,ICCに行くためのバスのなかであっという間に私の意識から消えていました.儚いソーシャル麻婆豆腐.
音声解説のなかで「ソーシャル麻婆豆腐」はなにかのメタファーのように機能しているような感じだけれど,手元に見ることができるテキストがないので,よく確かめられないまま解説を聞いていると,「ソーシャル麻婆豆腐」が文字通り「ソーシャル麻婆豆腐」として存在しだしてくるような感じが面白かった.語られているだけだから,確かめようがない.確かめられないなら,そして,「ソーシャル麻婆豆腐」をめぐる11個の作品についての音声解説はあるのだから,それは存在していると言ってもいいのではないでしょうか.
視覚的表現がないということだと,エキソニモが2013年に展示した作品(あとで調べる)では「黒い枠」だけが壁に描かれていたものがあった.[インターネット アート これから]で展示されたナチュラル・プロセスでは,大人の事情で2003年のInternet Explorerに表示されたGoogleのトップページを描いた絵画が展示されずに,位置決めのためのテープだけが貼られていた.エキソニモの作品の流れからいくと,今回視覚的表現がなくなったことはある意味自然だったのかもしれない.けれど,今回の展示はIDPW名義だから,どうなんだろう.
インターネットを表現媒体として使っているIDPWとカオスラウンジ.同時期に開催された展示のちがいは何を意味しているのだろうか.私はIDPWとカオスラウンジは「マーケット」という言葉である程度同じものとして語られるのではないだろうかと考えていた.けれど,今回のIDPWの展示は,うれしいことに私の考えを見事に裏切ってくれている.まだよく考えられていないので簡単に「裏切ってくれた」と言えるものではないかもしれない.
二次創作がほぼ不可能,と展示を見た後は思ったのですが,設定のヒントがあって中心が「ない」わけだから,意外とできるのではないでしょうか.でも,視覚的ヒントがなさすぎるので,やはり難しいかもしれない.こう考えると,中心に「ゴット」という「ゴッド」に近いけれども「ゴッド」ではない,何かわからないものがあった「ゴットは、存在する。」にも「ソーシャル麻婆豆腐」は似ているのかもしれない.視覚表現という「ある」ことを強く印象づける表現をなくしてしまうことで,音声とテキストのみの展示にすることで,これらの言葉がメタファーにもなり,リテラルに機能して,「ソーシャル麻婆豆腐」という存在が頭のなかで,ネットのなかで否応もなく立ち上がってしまう.このプロセスが「ソーシャル麻婆豆腐」の「正体」と言ってしまうと,実体探しになってしまって,きっとよくない.ソーシャル麻婆豆腐は「ない」.それでいいじゃないでしょうか.でも,「ある」かもしれない.
まだ,「陳さんの麻婆豆腐を味わいながら「ソーシャル麻婆豆腐」について思索するクロージングイベント」に行ってないので,行ってからまた考えよう.
これから,「陳さんの麻婆豆腐を味わいながら「ソーシャル麻婆豆腐」について思索するクロージングイベント」にいって「ソーシャル麻婆豆腐」について考えて,それをもとに下のテキストを修正していこうと思っています.
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デジタルの枠組みのなかでのテキストのありかたを「メタファー」と「リテラル」で考えていました.そんな中,ソーシャル麻婆豆腐を見に行ったわけですが,これがまた「メタファー」でもあり「リテラル」というか,私はこの2つの言葉とどこか視覚的表現を前提として考えいたところがありました.ライダー・リップスのポエトリーシリーズにしても,テキストが表示されている「場」としての視覚的表現・インターフェイスが前提になっていると思っていたということ.言葉とイメージとのあいだをどう規定するのか,その部分に「メタファー」と「リテラル」があると考えていたらしい.そんな前提をIDPWはぶっ飛ばしてくれたわけです.
展示会場にあるのはキャプションと音声解説用のiPodが2台.キャプションの前にたって音声解説を聞く.とてもシンプルな体験.脳内に拡がる「ソーシャル麻婆豆腐」.ソーシャル麻婆豆腐は文字通りにとればどこにもないけど,NHK福岡の女性アナウンサーの心地よい声で読み上げられるテキストのなかには「ソーシャル麻婆豆腐」がある,というか,「ここに,あそこに,そこに,どこかに,ソーシャル麻婆豆腐があるんだ」と想像できてしまう.いや,ソーシャル麻婆豆腐はあったのかもしれない,いや,ソーシャル麻婆豆腐はこれから生まれるのかもしれない,いやいや今目の目にソーシャル麻婆豆腐が生まれつつあるのかもしれない,ソーシャル麻婆豆腐は時世も撹乱しながら,テキストを聞いているときにはあって,それについて考えつつ展示会場にいるあいだにもあって,けど,ICCに行くためのバスのなかであっという間に私の意識から消えていました.儚いソーシャル麻婆豆腐.
音声解説のなかで「ソーシャル麻婆豆腐」はなにかのメタファーのように機能しているような感じだけれど,手元に見ることができるテキストがないので,よく確かめられないまま解説を聞いていると,「ソーシャル麻婆豆腐」が文字通り「ソーシャル麻婆豆腐」として存在しだしてくるような感じが面白かった.語られているだけだから,確かめようがない.確かめられないなら,そして,「ソーシャル麻婆豆腐」をめぐる11個の作品についての音声解説はあるのだから,それは存在していると言ってもいいのではないでしょうか.
視覚的表現がないということだと,エキソニモが2013年に展示した作品(あとで調べる)では「黒い枠」だけが壁に描かれていたものがあった.[インターネット アート これから]で展示されたナチュラル・プロセスでは,大人の事情で2003年のInternet Explorerに表示されたGoogleのトップページを描いた絵画が展示されずに,位置決めのためのテープだけが貼られていた.エキソニモの作品の流れからいくと,今回視覚的表現がなくなったことはある意味自然だったのかもしれない.けれど,今回の展示はIDPW名義だから,どうなんだろう.
インターネットを表現媒体として使っているIDPWとカオスラウンジ.同時期に開催された展示のちがいは何を意味しているのだろうか.私はIDPWとカオスラウンジは「マーケット」という言葉である程度同じものとして語られるのではないだろうかと考えていた.けれど,今回のIDPWの展示は,うれしいことに私の考えを見事に裏切ってくれている.まだよく考えられていないので簡単に「裏切ってくれた」と言えるものではないかもしれない.
二次創作がほぼ不可能,と展示を見た後は思ったのですが,設定のヒントがあって中心が「ない」わけだから,意外とできるのではないでしょうか.でも,視覚的ヒントがなさすぎるので,やはり難しいかもしれない.こう考えると,中心に「ゴット」という「ゴッド」に近いけれども「ゴッド」ではない,何かわからないものがあった「ゴットは、存在する。」にも「ソーシャル麻婆豆腐」は似ているのかもしれない.視覚表現という「ある」ことを強く印象づける表現をなくしてしまうことで,音声とテキストのみの展示にすることで,これらの言葉がメタファーにもなり,リテラルに機能して,「ソーシャル麻婆豆腐」という存在が頭のなかで,ネットのなかで否応もなく立ち上がってしまう.このプロセスが「ソーシャル麻婆豆腐」の「正体」と言ってしまうと,実体探しになってしまって,きっとよくない.ソーシャル麻婆豆腐は「ない」.それでいいじゃないでしょうか.でも,「ある」かもしれない.
まだ,「陳さんの麻婆豆腐を味わいながら「ソーシャル麻婆豆腐」について思索するクロージングイベント」に行ってないので,行ってからまた考えよう.