「ソーシャル麻婆豆腐」がつくるそこにある「空白」

エキソニモが関わった作品を追っている研究者として「ソーシャル麻婆豆腐」に視覚的表現がないということから思い出されるのは,エキソニモが2013年に展示した作品《風景2013》では,床に置かれた多くのスマートフォンやタブレットに「プッシュ通知」があって,その音を聞きつつ,壁には「黒い枠」だけが描かれていたことである.《風景2013》でも私たちの注意を惹きつけるのは「音」であって,視覚的表現は音を鳴らすスマートフォンのディスプレイには映されていたけれども,意味ありげに壁に貼られた黒いテープによる枠は「空白」のままであったりする.この展示に関して以前,次のように書きました.

この作品をタイトルの《風景2013》から考えてみると,そこに「風景」の移り変わりを見ることができます.エキソニモがネットの風景画としてGoogleのトップページを描いた《A web page》を完成させたのが2004年です.このときにはGoogleがネットの風景として成立していて,僕たちはそこにいって「検索」をしてネットをしていました.では,2013年の風景はどうでしょうか.スマートフォンの群れの先にある壁には「黒い枠」だけがつくられていて,そこに「風景2013 exonemo」と書いているだけです.もう,僕たちみんなが見る「風景」はなくて,それぞれのスマートフォンがそれぞれの風景になっていて,そこに「プッシュ通知」がやってきてます.「検索」をしようと思って「Google」に行くのではなく,手元にあるスマートフォンに勝手に通知がやってきてそこからネットがはじまります.「検索」という能動的な行為ではなく,勝手にやってくる「プッシュ通知」からはじまるという受動的な感じではじまるネット体験が,2013年のひとつの風景になっています.
プッシュ通知|風景|2013 

みんなで見る風景がなくなり,各自で異なるディスプレイを見ている.その状態は2014年の今はさらに加速しているでしょう.「プッシュ通知」は当たり前のものになって,多く人が「ソーシャル」のつながりに取り込まれています.そんな状態だからこそ「ソーシャル麻婆豆腐」は生まれたと言えるかもしれません.私たちが共通して見ている風景など,もうない.バズったり,炎上したほんの少しのあいだみんなほぼ同じ風景はあるかもしれないけれど,それもまた少しづつ異なっている.というか,そんなものはつくられたものでしかない.「幻想」と言ってしまうと強い感じがするので,やはり「風景」と言うものがつくられる.翻って,今回の「ソーシャル麻婆豆腐」では,音声メインの展示構成によって,その「風景」がつくられそうで,つくられない状態に置かれたと考えられる.視覚的な「空白」によってツイートの連続によってつくられる「風景」もまた空白にしていくこと.

このように考えると,中心に「ゴット」という「ゴッド」に近いけれども「ゴッド」ではない,何かわからないものがあった「ゴットは、存在する。」にも「ソーシャル麻婆豆腐」は似ているのかもしれない.視覚表現という「ある」ことを強く印象づける表現をなくしてしまって,音声とテキストのみの展示にすることで,「ソーシャル麻婆豆腐」という存在が頭のなかでもネットのなかでも否応もなく立ち上がってしまう.このプロセスが「ソーシャル麻婆豆腐」の「正体」と言ってしまうと,実体探しになってしまって,きっとよくないであって,ソーシャル麻婆豆腐は「ない」という「空白」に「ある」.それでいいのではないでしょうか,という気持ちになる.そして,「ソーシャル麻婆豆腐」がつくるそこにある「空白」が「エキソニモ」というアーティスト名ではなく,IDPWという秘密結社がつくりだしていることの意味を,エキソニモの作品群を追っている研究者としての私は考えてみる必要がある.

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