儚いソーシャル麻婆豆腐
「陳さんの麻婆豆腐を味わいながら「ソーシャル麻婆豆腐」について思索するクロージングイベント」に行って,しっかりと「陳さんの麻婆豆腐」を食べてきた.そして,「チームラボによる『チームマーボー』です!」というアナウンス,そして何かが起こるのかちょっとした期待とともに会場が少し静かになるが,結局何も起こらずに,そのアナウンスもなかったかのようにまたみんながしゃべりだすということを何回か経験しながら,いつしかアナウンスが会場に流れても,誰も気にかけなくなっていった.この一連の体験を通して「ソーシャル麻婆豆腐」についての思索が深められたと思う.
このクロージングイベントの体験から,「ソーシャル麻婆豆腐」の展示を再び考えてみる.「ソーシャル麻婆豆腐」の展示会場にあるのは,キャプションと音声解説用のiPodが2台のみ.音声解説されるべき「視覚的表現」はどこにもない.ただただキャプションの前にたって音声解説を聞く.とてもシンプルな体験であるが,脳内に拡がるのを止められない「ソーシャル麻婆豆腐」をめぐる想像力がうまれる.「ソーシャル麻婆豆腐」は文字通りにとればどこにもないけど,NHK福岡の女性アナウンサーの心地よい声で読み上げられるテキストのなかには「ソーシャル麻婆豆腐」がある,というか,「ここに,あそこに,そこに,どこかに,ソーシャル麻婆豆腐があるんだ」と想像できてしまう.
作品に関する数少ない視覚的情報であるキャプションを見ていくと,そこには「妙心寺の開山(2014)素材:大豆,大豆加工品」「インタラクティブプロジェクション麻婆豆腐(2013)素材:大豆,大豆加工品」「島の神々(2016)素材:大豆,大豆加工品」「猛獣(1920)素材:大豆,大豆加工品」と書かれている.写真を撮り忘れてしまったので正確ではないが,「完治物語」という作品の制作年が「平成時代初期」となっていったところで,私の時代感覚は大きく歪み,ソーシャル麻婆豆腐はあったのかもしれない,いや,ソーシャル麻婆豆腐はこれから生まれるのかもしれない,いやいや今目の目にソーシャル麻婆豆腐が生まれつつあるのかもしれないと考え込んだ.
と,「儚いソーシャル麻婆豆腐」という最後の一文を書いて,また最初から読み直しているときにライダー・リップスが去年行った「Hyper Current Living」というパフォーマンを思い出した.それはリップスがRed Bullを飲みながら,アイデアをツイートし続けるというパフォーマンなのだが,そこでツイートされるアイデアはTwitterのタイムラインですぐに評価と同時に「蒸発」していく.このパフォーマンでリップスが前提としていたソーシャルメディアの特色は,すべてがあっという間に流れていく,忘れされていくということであった.Twitterでは『文字』という視覚メディアでありながら,そこではそれは記録されなかった音声のようにすぐに蒸発して,忘れられていく.この流れは,音声中心の展示であった「ソーシャル麻婆豆腐」と同じではないだろうか.ネットによって視覚的表現が圧倒的な量になっているわけだが,その反面,そこでの文字情報も含めた視覚的表現は,言われた瞬間に消えていってしまう音声のような儚い存在に変わっているのかもしれない.
儚さに対抗するわけではないけれど,ここに儚く流れていく「ソーシャル麻婆豆腐」を巡るツイートを置いておきたいと思う.
Tweets about "ソーシャル麻婆豆腐"
次回はエキソニモの作品群のなかでの「ソーシャル麻婆豆腐」などメモに書いた後半部分を再考していこうと思います.