[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_03

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自分が書いたものにツッコミを入れつつ,行きつ戻りつしながら[インターネット アート これから]を考え中.

ツッコミでも「単体」と「群体」とのことを考えていて,そのリンクを張って,ブログをアップしてしまおうと思ったところで,ふと思い浮かんだのが,国立国際美術館での「世界制作の方法」展でのエキソニモの作品《ゴット・イズ・テッド》.これはポスターという「紙」を素材にした作品.暗闇のなかに一枚のポスターがスポットライトで照らされていて,それは映画のポスターのようにデザインされていて,公開日を示すような「日付」が書いてある.そして,私はこの展覧会を2回見に行ったのだが,「日付」は2回とも異なっていた.ポスターのデザインは変わらないけれど,そこに書かれている「日付」は一日ごとに変わっていたと思われる.

となると,鑑賞者が見るポスター一枚一枚は「単体」であるが,作品としてポスターはもともと「群体」となるように設計されていたことになる.私は以前,この作品を「《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」」というタイトルで考察していた.そこにこんなことを書いていた(そして,そのことをすっかり忘れていた).

エキソニモの《ゴット・イズ・デット》には「インターネット」という「もうひとつのリアル」がそこにある存在として示されていたような気がする.「ネットは広大だわ」という草薙素子のつぶやきがしめすような茫漠とした拡がりと,そこを占めることになった猥雑で雑然とした感覚.どこまでも広がる茫漠した論理空間.それは今まではとてもクールで無機質なものとして現れていたけれど,それは今では雑然としたリアルの延長となっている.広大な論理空間と雑然とした生活空間という矛盾するふたつの空間の同居という要素が,《ゴット・イズ・デット》という作品の中にはあると思う.
なんとなくではあるが,ここに「単体」と「群体」ということで「インターネット アート これから」及び,ポスト・インターネット界隈の作品を考えていくことの「きっかけ」があるような気がする.

連想の流れのままに,そして流れを行きつ戻りつしながら,どこまで行けるか,流れされていくことができるのか.

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