[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_01


しばらくのあいだ,【[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ】を行きつ戻りつしながら書いていきたいな,と思っています.

そう思ったのは,
展示自体への批判・意見がネット上にあまりないので,自己批判しながら展示を改めて考えてみたくなったから.
そして,これから公開されていく「座談会」のテキストが,とても刺激的だから.
あと,継続的に考えていくことが大切だと思ったから.以上です.
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「ホワイトキューブ」ではないリアリティーとして[インターネット アート これから]を考えてみる.

「ホワイトキューブ」での作品が,主に「単体」として鑑賞されるのに対して,作品ではなく「作品群」をひとつの「群体・クラスター」として鑑賞するような仕組みを仕掛けるのが「インターネット・リアリティ」のもとでの展示のあり方かもしれない.例えば,new jpegs.「作品群」と書いたけれど,これは複数の作品でも,ひとつの作品における展開(リアルな展示,ネットへの記録写真,ネットでの画像流通など)でもよい.

単体でもなく
媒体でもなく
群体で考えること
(ここは言葉だけが浮かだ状態.何も確証はないけど,「なんかいいかな」と思っています)

自己批判として,
[インターネット アート これから]は単体的な作品で勝負してしていた?
それゆえに「インターネット・リアリティ」が前面にでなかったのか?

そうかもしれないと思いつつ,以下のように考えてみたい.
「インターネット・リアリティ」の前に「デスクトップ・リアリティ」があると考えてみる.デスクトップからインターネットへとリアリティが移行する.

[インターネットアートこれから]が示していたのは,「デスクトップ→インターネット」へとリアリティが移行する,その「→」の部分だったのではないか?

この「→」を生じさせるためには,「デスクトップ・リアリティ」でヒトとコンピュータのあいだの「情報の流れ」を,ある程度確立させることが重要だったと考える.(この情報の流れと関係するのが秋庭美学のなかのハーネスの思想ではないか→以前考えたこと

[インターネットアートこれから]の作品は,ヒトとコンピュータのあいだの「情報の流れ」を撹乱する,もしくは,より鮮明に見せることで「作品」となっている.しかも,そこでの「情報の流れ」は,これまでのメディアアートが主に行なってきた「あたらしさ」を作るというものではなく,私たちが慣れ親しんだもの,ある意味陳腐な「情報の流れ」を可視化するという選択をしたものである.この選択は今までなかったのではないだろうか.

ヒトとコンピュータという存在の仕方が異なる「単体」が向かい合った際に生じる「情報の流れ」を感じさせる作品が多かった故に,[インターネット アート これから]の多くの作品は「単体」として強すぎて,「インターネット・リアリティ」に十分に接続できなかったのかもしれない.しかし,「インターネット・リアリティ」を形成する前提:当たり前となった「情報の流れ」のなかでの作品のあり方を示していると考えることができる.

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