Watching Martin Kohoutを見続ける

マーティン・コーホウトMartin Kohout による Watching Martin Kohout.これはコーホウトがYouTubeで映像を見ている自分自身を撮影した作品.YouTube で何を見ているのかは,映像のタイトルに書いてあり,例えば,Watching Radiohead - Lotus Flower (Music Video) となっている.コーホウトがYouTubeにあるひとつ映像を見ているのを撮影したものが,彼のチャンネルに821本ある.この821本は,2010年4月から2011年3月までのあいだに作られている.

上に例としてあげたレディオヘッドを聴いている映像は,このコーホウトが映った映像をまたコーホウトが見ているのを撮影したWatching Watching Watching Radiohead - Lotus Flower (Music Video) があるし,さらに,Watching Watching Watching Watching Radiohead - Lotus Flower (Music Video) もある.上の作品には「映画「インセプション」を思い出させる」というコメントまでついている.他にも Watching Martin Kohout の映像を他の誰かが見ているという映像も上げられている.例えば.Watching Martin Kohout Watching Cats Playing Patty-Cake.恐らく,一部ではコーホウトはアイドル的な扱いも受けているのではないだろうか.

 映像を見ているコーホウトはほとんど動かないし,笑わない.でも,ちょっとした変化はある.その変化は,Watching Martin Kohout でチャンネルでの映像紹介でのサムネイルを延々と見ていくだけもわかる(というか,821本すべてを見ることは,私にはできませんので….個人的には,このサムネイルを延々と見ていくのは好きです)けれど,基本,動かない,笑わないコーホウトを見続け,YouTubeから流れる音を聞き続ける作品.

「見る−見られる」という関係を扱った作品は,ビデオアートの初期から作られている.例えばヴィト・アコンチ,そしてそれを原発でやった指差し男:竹内公太.しかし,コーホウトには上の作品が示しているような思想とか社会問題への意識などは,あまり無いのではないだろうか.YouTubeを見続ける現代社会への警鐘が彼の作品にあると思えない.そもそも思想や社会問題を問題にしたパフォーマンというのは一度きりだから効力をもつのではないだろうか.



コーホウトはアコンチや竹内と異なり,自分がビデオに映っているということを意識しながら,何かする(彼の場合は映像を見る)ということを,1回だけではなく,821回もやっている.821回もやると,いつしか自分が映像を見ているということが撮影されているということに慣れていくのではないだろうか.コーホウトの意識は,どこからか自分がやっていることが何の特別なことでもなくなって,朝がきたので起きて,YouTubeを見る,そして自分も撮るというような一連の「自然」な流れになっていたと思われる.けれど,それがどこの時点で意識が切り替わっていったのかを少しでも確かめようとすると,こんどはコーホウトの行為を覗き見気分でみていた鑑賞者自身が,コーホウトを見続けなければならなくなる.最初は苦痛かもしれない.なぜなら,そこには面白い動画を見ていてもほとんど笑わない男を見続けるのだから.しかしいつしか,鑑賞者自身も朝起きて,YouTubeにいって,コーホウトを見るというのに慣れるのかもしれない.だから,コーホウトのWatching Martin Kohoutは,コーホウトが自分の作品を作ってく映像を見ている自分を見るという再帰的行為に慣れていくプロセスが示されているとも言えるのだが,それを確かめるには鑑賞者がコーホウトの映像への慣れを意識的に断ち切って観察しなければならないのである.

最後に,コーホウトのこの821本もの映像をつくることを可能にしているのが,YouTubeという膨大な映像をもつサービスであることも忘れてはならない.YouTubeにある無尽蔵とも言える映像を,淡々と見続け,その様子を撮影して,それをまた淡々とアップロードし続ける.YouTubeという公開場所があったから,コーホウトは821本もの映像を作り続けるモチーベーションを保てることができのだろうか.もし,自分の家で何かのビデオを見ているのを,ビデオで撮影し続けるということをしたとして,821本の映像を残せるだろうか.作品が見られる/ないということではなく,作ったものをすぐに公開できるということが,コーホウトがここまで大量の映像を作り続けた要因のひとつなのではないか.このあたりのことは本人に聞かないとわからないが,YouTubeをはじめとするネットでは,継続していくことで生まれるリアリティというものがあり,それはネットそのものが「継続」を受け入れるような構造になっているということから来ているような気がしている.

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