THE COPY TRAVELERSとのトークのメモ


アーティスト,Brad Troemelらによって運営されているTumblr,「the jogging」では日用品を使ったオブジェだったり,たんなるネタ画像のようなコラージュなど,雑多な画像が投稿されているが,the joggingが2013年に行った「Soon」という展覧会では,ネジで壁面に生魚を固定した作品や,スイカを積み上げた作品など,the joggingのTumblr同様に,Photoshopで適当に合成されたような珍奇な彫刻作品が展示されていた.それらの作品は,どれもその形を維持出来る時間がごくわずかな素材で出来ていて,実際の会場ではすでに崩壊したり,腐敗していて,設営直後に撮影された画像の中だけで成立しているような作品だった.Tumblrで先鋭化されたコンポジションのスタイルが,現実の空間で展開されることで,Tumblrと現実の空間それぞれで要請される時間性の差が,現実の空間での素材の腐敗,劣化として現れる展示になっていた.(p.89)

「彫刻とポスト・インターネット」のための覚え書き,谷口暁彦 in MASSAGE 10






マテリアルはメタファー
光と影







ギャラリーで作品を見続けても意味がないと思った.


これらの例において,それぞれの作品や展覧会は,インターネットと現実の空間との間にある齟齬や,緊張関係にその成立条件があったと言える.それは,一つの閉じた窓として成立する絵画や画像ではなく,その作品の周囲をぐるりと見て周ることができる「彫刻」であるからこそ,必然的にその作品の周囲で空気のように充填された空間を巻き込むことになるからだ.そしてその空間は,たんにヴァーチャルか現実かという対立にあるのではなく,その両者が対立と調停を繰り返すような,展開された場としてあるのではないだろうか.(p.89)

「彫刻とポスト・インターネット」のための覚え書き,谷口暁彦 in MASSAGE 10











11/21/15, 07:47:23
THE COPY TRAVELERS(コピトラ)とのトーク

来週のTHE COPY TRAVELERS(コピトラ)とのトークについて考えていたけれど,ブログを書くほどにはまとまらなかったのでmemoする.

ポストインターネットでネットと対比される「リアル」とよく言われるし,自分も「リアル」という言葉を簡単に使っていたけど,リアルとネットが等価値になったときの「「リアル」って何だ?」と考えると,それは重力があってモノが貫入しない世界のことではないかと.これは谷口さんのスキンケアを見てきた後に出てきた考えで,物理世界で当たり前のことなんだけれども,このことを「リアル」という言葉に与えることは,ネットやデジタルの現象を考えるときに必要のような気がする.

Googleのマテリアルデザイン[Material is the Metaphor=融けるデザイン/モノを考える=モノの法則−身体のつながり]は重力があってモノが貫入しない世界のうち,貫入しないというパラメーターをデザインに取り込んで,重力はないことにしている.重力はないけど,モノとモノとが貫入しないから重なって,影ができる.でも,実際はその影はモノとモノとが重なってできる影ではなくて,「影」ができることによって,モノとモノとの貫入がないことになり,重なることになる.

こんなことを考えてたいたら,コピトラの作品には影が多いなと気づいた.それらはリアルな作品で,それを見ているときにネットやデジタルな現象を思い浮かべることは少ないなということも気づいた.谷口さんの作品やアーティ・ヴィアーカントのイメージオブジェクトにはあまり影を見ないなと思いつつ,実際は見ているのだけれど,それが気にならない.影が気にならないというか,作品がモノであることを気にしていない.どこか重力がなく,モノとモノとが貫入する(貫入してしまう)世界を想定しながら作品を見ているところがあるような感じがある.


コピトラとのトークに向けて毎日memoを書くぞと決めたのに,書けてなーい.リアル=重力があり,モノが貫入しない世界としたけど,それはそのようにパラメーターが決められた世界といえるし,ここで「パラメーター」という操作する要素が入ってくる時点で,世界の見え方は大きく変わっている.でも,それは「神」という言葉で言われてきたことでもあるから,ヒトの考え方は大昔からあまり変わらないような気がする.変わったのはやはり,アイデアを画像・映像化できるようになったことにあると思う.それこそコピーという手法でアイデアを拡散させたように,シミュレーションという手法で世界をいじることができ,リアルがシミュレーションの一部となり,それを見ることができるようになった.現実をまねるためにパラメーターを調整し,アルゴリズムを洗練させてきた.しかし,ここで洗練の先に何があるのかという問いも生まれた.それはシミュレーションが「リアル」を凌ぐようになったときにも言われたことだけれど,今は,多くの人がシミュレーションをある程度出来るようになったから,思いつきがシミュレーションされるようになった.そこには科学的な裏付けとかないけれど,とにかく頭に浮かんだことをやってみる.そこから考えるようなシミュレーションの使い方が出てきたのかなと思う.そこでは重力はなくなくるし,モノも貫入しまくる[谷口暁彦個展スキンケアでの《むくみ、たるみ》.けど,それが何を意味しているかはわからない.でも,それでいい.そこでうまれた画像・映像を見ることで,世界の見え方が変わればいい.そんなシミュレーションの世界のなかでの「コピートラベル」[レイヤーの入れ替わり/単眼的視点ースキャンという平面の読み取り]とは何を意味するのか? このあたりを考えればいいのかもしれない.



シュミレーションの世界のなかのコピートラベルはどこに辿り着くのか.どこにも辿り着かないのかもしれないし,「辿り着く」という発想自体がいけないのかもしれない.シミュレーションの世界で写真は無数の可能性,選択の集積になった.もともと写真は選択の可能性の集積であるが,ディスプレイとプログラムによってそれはまさに膨大な選択肢からの選択になった.それがコピトラと関係しているのか,していると思う.そして,写真の加工にPhotoshopを使うこと自体を作品のなかに明示したり,議論に取り入れようとする動きが写真家のなかにあることもコピトラに関係していると思う.Photoshopで作業しているときにふと出来てしまった表象を作品に選択すること.それはいままでの表象ではなかったものを取り入れることに近い.「いままでの」という発想がだめかもしれない.Photoshop由来の画像・イメージを見せること,これはコピーの世界とはまた異なったこと? わからない.Photoshop由来の画像・イメージを見せることはPhotoshopをつかっているという行為を見せることとは異なっているような気がする.コピーは空間を平面化するが,Photoshopは空間をえぐるというか,これもまた空間を平面化するだが,その平面化したときに空間自体が平面になるというか.Photoshopによって表象の平面が示す空間が一度消去されるけれど,見る人のなかには根強くというか基本的に空間概念があるから,Photoshopによる空間の消去を打ち消して平面を見ようとしてしまう.そこによくわからない,どこにあるのかがはっきりしないような空間平面場がうまれる.そんな感じ.


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