Fragmentation メモ:中心への「↑」とループ|バラバラ|往復の「↑」



伏木啓さんの Fragmentation を考えていたときに描いた図. 作品の時間の流れを示そうとしている.中心へと流れ込む時間.これは,フルッサーがテクノイマジネーションでの時間意識といったものに近い.バラバラな時間の向きの中に点線で囲まれた選択範囲があってその中だけ時間がループしたり往復しているのは,テクノイマジネーションの「あと」の時間意識なのではないだろうかと考えている.テクノイマジネーションが歴史の「あと」にあるとすれば,歴史の「あと」にあるテクノイマジネーションではない「もうひとつ」の時間意識.多くの視点をとることがテクノイマジネーションだとすれば,この「もうひとつ」の時間意識もテクノイマジネーションの中にあるものなのか? しかしそれとは異なる感じがする.「もうひとつの」という言葉や,自分が気になっている矢印が示す「その先にあるもの」というのは多様な視点をとることとも違う.そこには,私たちがどうしても「入り込めない」領域があるような気がする.そこに入り込んでしまうと,ループや往復している時間が示す「退屈さ」があるのではないか.

ループや往復している時間が「退屈」なのだろうか.それとも,それらの時間に入り込めそうで,入り込めずにバラバラな時間の中にいることが「退屈」なのか.バラバラでもなく,ループしているわけでもなく,かといって時間の中心にいることもない,といった居場所のなさからくる「退屈さ」とも考えられる.時間の中にたしかにいるのだけれど,そこに居場所を定めることができない.居場所がないととすれば,不安になるのではだろうか.しかし,作品を見ているときの感覚は「退屈」であった.居場所がなくなり,時間との関係が切れてしまったことで,すべての対象が自分と関係なくなってしまったことからくる「退屈さ」だったのかもしれない.自分が全く選択されていない.自分が点線で囲まれていないことからくる「退屈さ」.そこで選択範囲が反転して,自分が時間が中心となり「退屈さ」がなくなる.

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