Fragmentation メモ:映像内の選択範囲と世界の複数性

作品を見ている時と、それについて書いているときとで、3つの映像に対する印象が異なる。見ているときは、少女が紅茶を注いでいる映像が一番印象的であった。あとの2つは、面白いなとは思ったが、あまり印象に残らなかった。けれど、映像について考え始めると、あとの2つの方が興味深いのである。

少女が紅茶を注ぐ映像は、カットが次々に切り替わるリズムが心地よいものである。あとの2つはカットが切り替わることはなく固定ショットである。固定ショットの中で、あるひとつの範囲、電車とブランコが延々と動き続けるように加工されている。

カットのつながりで映像を作っていくことに、私たちは慣れている。カットを小刻みに刻んでいけば、「いまここ」は簡単にあいまいになっていく。それが2つのスクリーンで行われれば尚更である。2つのスクリーンでひとつの対象を異なる捉えた映像を同時に流したり、ひとつのスクリーンは対象を映し出し、もうひとつが全く関係ない情景を示したりする。鑑賞者はこれら2つの映像を結びつけていく。2つの映像の関係を作る中で、「いまここ」があいまいになっていく。

しかし、これはみんな知っていることである。どういうことか? カットのつなぎで作られていく映像では、出演者も制作者もいま自分が行っていることが「カット」され断片化されて映像作品となっていくことを知っている。鑑賞者も、予め断片化されることが決まっていたものをつないだ映像を見ていることを知っている。ここではすべてが予め断片化されている。

固定ショットの映像の場合はどうだろうか。固定ショットでは、今回の場合、写っている人たちは自分が映像作品の一部になることも知らない。ただ自分の時間の流れの中にいるだけである。その一部をカメラが捉えている。その意味では、時間の断片化が起こっているとは言えるが、断片化されても時間の向きはその人自身に属している。人に属している時間の向きを変えられないため、固定ショットの映像では、そこに写り込んでいる「電車」と「ブランコ」の時間が断片化される。そのひとつの断片を延々とループするように時間の向きが変えられる。向きが変えられるのは「選択範囲」の中だけであり、選択範囲外には全く影響がない。「選択範囲」だけ、時間の向きが変えられるのである。そして、それ以外の人やものは自分たちが属している時間の向きで存在している。「選択範囲」と「選択範囲外」のあいだには全く干渉がない。異なる世界のなっている。映像の中に選択範囲を作ることで、もうひとつの世界が生じる。「もうひとつの世界」との関係において、映像の「いまここ」があいまいになっていく。

カットをつなぐ映像では、ひとつの世界の中での多重性が映像の「いまここ」をあいまいにする。そして、それは鑑賞者が明確に感じることができるものである。「選択範囲」を作り、その中の時間の流れの向きを変えることで、「もうひとつの世界」を作り出す映像では、世界の多重性が映像の「いまここ」をあいまいにする。この世界の多重性は、鑑賞者がはっきりと感じることが難しい。それは、私たちは普段「ひとつの世界」に属していると教え込まれているからである。だから、世界の複数性を感じとることは難しいのである。しかし、世界は複数性を帯びつつある。このことを、映像内の選択範囲は示しているのではないだろうか。

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